Science park 2026年10月号 前編『脳の声を聴く人々 ― RDRが導く新しいケアの物語』

◆登場人物

三枝(さえぐさ)紗耶

認知症ケア専門士。

RDR(Retrospective Data Research)を用いた家族面接の第一人者。

村上恵子

78歳。アルツハイマー型認知症。初発は家族が気づく3年前。

村上浩一

長男。母の変化に戸惑いながらも支え続ける。

佐伯医師

脳神経内科医。脳の連合野の障害を丁寧に説明する。

第1章 「母の時間が、少しずつずれていく」

十二月の風というものは、どこか人の記憶を揺らすようなところがある。

神戸の海から吹き上げる風は、家々の瓦を鳴らし、路地の隅に落ち葉を集めては散らし、まるで季節そのものが何かを言い残して去っていくような気配を漂わせていた。村上浩一が、母・恵子の異変に初めて気づいたのは、そんな風の吹く冬の午後であった。

その日、恵子は台所の椅子に腰かけ、湯気の立つ味噌汁を前にしていた。

浩一が「母さん、今日は病院に行く日だよ」と声をかけると、恵子は少し首を傾げ、「今日はどこへ行くんだっけ?」と、まるで初めて聞くような顔をした。

浩一は、胸の奥に小さな石が落ちたような感覚を覚えた。その石は、やがて日を追うごとに大きくなり、重くなり、ついには彼の生活の中心に居座るようになった。

恵子はその日、同じ質問を五度繰り返した。「今は朝かしら?」「今日は病院?」「何時に出るんだった?」そのたびに浩一は答え、恵子は「そうだったかしら」と曖昧に笑った。笑みは柔らかいが、どこか輪郭のぼやけた影を伴っていた。

しかし、三枝紗耶は、認知症ケア専門士であり、RDR(Retrospective Data Research)の第一人者である。RDRシートを開いたとき、その“初発”は1997年ではなく、1994年にすでに始まっていたことが静かに浮かび上がった。

三枝は、冬の光を受けて淡く輝く眼鏡の奥で穏やかに微笑み、「家族が気づく三年前に発症していた例は珍しくありません。生活暦、家族構成、初発症状、病前性格……これらを時系列に並べると、心の地図が見えてくるんです」と言った。その声は、どこか冬の風とは違う温かさを帯びていた。

浩一は、母の人生を遡る旅へと誘われるような気持ちになった。恵子は広島で生まれ、戦後の混乱期を家族とともに生き抜き、明石へ移り住んだのは1943年。その年、浩一が生まれた。神戸では、商店街の人々と茶飲み話を楽しむ社交的な性格で、「お母さんは、誰とでもすぐ仲良くなる人でした」と浩一は語った。

三枝は、RDRシートの「生活暦」の欄に丁寧に書き込みながら、「この時期の環境変化は、後の認知症の発症にも影響します。

人は環境の変化に合わせて心を調整しますが、加齢とともにその調整力が弱くなるんです」と説明した。

三枝は、机の上に一枚の紙をそっと広げた。 冬の光が紙面に落ち、そこに記された文字が淡く浮かび上がった。

「これが、お母さまのRDRシートです。  

人生を時系列に並べると、心の変化がどこで始まったかが見えてきます。」

浩一は、紙の上に視線を落とした。

【RDRシート(Retrospective Data Research)】

① 生活暦・環境変化
 1943年 広島 → 明石へ転居(長男・浩一誕生)
 1965年 明石 → 神戸へ転居(商店街近くの住宅)
② 家族構成の変化
 1943年 長男誕生
 1970年 夫、定年退職
 1988年 夫、脳梗塞にて他界
③ 初発症状の発症時期
 1994年 同じことを繰り返し尋ねる/物の名前が出てこない
 1997年 家族が異変として自覚
④ 病前性格
 円熟型:社交的・趣味多彩・近所付き合い良好
⑤ 罹病後の性格変化
 短気・興奮しやすい・こだわりの強まり
⑥ 既往歴
 1978年 高血圧
 1997年 大腿骨骨折
⑦ 遺伝負因
 母方祖母に類似症状あり
⑧ 身体合併症
 1997年 糖尿病診断

三枝は、指先で「1994年」の行を軽く叩いた。「ここです。家族が気づく三年前に、すでに発症していた可能性があります。この“時差”こそ、認知症の本質なんです。」

浩一は、紙面の文字を追いながら、 母の時間が少しずつずれていった理由を、初めて“脳の地図”として理解し始めていた。

最新の研究では、環境変化が前頭前野の負荷を増し、認知症の発症リスクを高めることが示されている。

特に、生活の節目時に引っ越し、家族構成の変化、退職などは、脳の「順序立てる力」を司る前頭前野に大きな影響を与えるという。恵子の人生には、そうした節目がいくつもあった。それらは、彼女の心の地層に静かに積み重なり、やがて認知症という形で表面に現れたのかもしれない。

1994年、恵子は、家族が気づかぬほどの小さな変化を見せ始めていた。同じ話を繰り返す。物の名前が出てこない。財布をどこに置いたか忘れる。

複雑なテレビドラマが理解できない。東京都老人総合研究所の調査によれば、認知症の初発症状として最も多いのは「同じことを言ったり聞いたりする」(43.9%)である。これは、側頭連合野の意味づけ機能の低下と、前頭前野の抑制機能の弱まりが複合して起こるとされる。恵子の症状は、まさにその典型であった。

「母さんは、昔から几帳面で、家計簿もきっちりつけていたんです」と浩一は、どこか悔しさを含んだ声で言った。「それが、ある日突然、計算を間違えるようになって……」三枝は静かに頷いた。「計算の間違いは、頭頂連合野の障害を示唆します。空間認知や数の操作は、この領域が担っているんです」

脳は、ひとつの臓器でありながら、その内部に無数の“働きの区画”を持つ。その区画がどこで、どのように弱るかによって、認知症の姿はまったく異なる顔を見せる。最新研究では、脳画像解析AI(SSE-AI)が前頭前野の機能低下と「感情の制御困難」が強く相関することを示している。恵子が短気になり、興奮しやすくなったのも、性格が変わったのではなく、脳の働きが変わったのだと三枝は説明した。

観察の途中、恵子はふと笑った。窓の外を見て、「今日はいい天気ね。昔、浩一と海に行ったわね」とつぶやいた。その記憶は、海馬と大脳辺縁系に刻まれた“情動記憶”。認知症になっても、心の奥底に残る感情の記憶は消えない。浩一は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の石が少しだけ軽くなったような気がした。

三枝は言った。「お母さまは、まだ“感じる力”を持っています。それが残存能力です。ケアは“できないこと”ではなく、“まだできること”に合わせていくのです」その言葉は、冬の風の中で、静かに温かく響いた。

こうして、恵子の“心の地図”は、少しずつ、しかし確実に姿を現し始めていた。時間の輪郭が曖昧になっていく母の姿は、決して失われていくばかりではなく、脳の奥底に残る光を探し当てる旅でもあった。浩一は、その旅の始まりに立っていた。

第二章 「森の奥で迷うように、心の地図が揺らぐ」

冬の陽は、午後になると急に力を失い、家々の影を長く伸ばしながら街を静かに沈めていく。神戸の坂道は、夕暮れが近づくにつれ、どこかしら寂しげな色を帯び、風は海の方から冷たく吹き上げてきた。

村上浩一は、母・恵子の部屋の障子をそっと開け、薄い光の中で母が何をしているのかを確かめた。恵子は、机の上に置かれた古いアルバムを開き、写真の一枚一枚を指でなぞっていた。だが、その指先は、写真の人物の顔を追うというより、紙の質感を確かめるように、ただ静かに動いているだけだった。

「母さん、それは誰の写真か分かる?」浩一が声をかけると、恵子はゆっくり顔を上げた。目は柔らかく、しかしどこか遠くを見ているような曖昧さを含んでいた。「この子は……誰だったかしらねえ。見覚えはあるのだけれど、名前が出てこないのよ」恵子はそう言って、少し困ったように笑った。その笑みは、なにか悲しげで、輪郭のぼやけた影を伴っていた。

翌日、三枝紗耶が訪れた。冬の光を背に、落ち着いた足取りで部屋に入ると、机の上に広げられたアルバムに目を留めた。「写真は、側頭連合野の働きをよく映すんです」三枝はそう言いながら、恵子の隣に座った。「形は分かる。でも意味が分からない。これは、側頭連合野の“意味づけ”の機能が弱っているときに起こる典型的な症状です」

恵子は、写真の中の人物を指さしながら、「この人は、優しい人だった気がするのよ」と言った。名前は出てこない。しかし、感情の記憶は残っている。三枝はその様子を見て、「海馬と大脳辺縁系は、まだ働いていますね」と静かに言った。「認知症になっても、感情の記憶は最後まで残ることが多いんです」

浩一は、母の言葉を聞きながら、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。名前は忘れても、優しさは覚えている。人の心とは、なんと不思議な構造をしているのだろうか。脳の奥底に刻まれた情動の記憶は、時間の輪郭が曖昧になっても、なお光を放ち続ける。

三枝は、机の上に新しい紙を広げた。そこには、脳の連合野の図が描かれていた。前頭前野、頭頂連合野、側頭連合野、後方連合野。それぞれの領域が、どのような働きを担っているかが、簡潔に示されていた。「恵子さんの症状は、この三つの領域が関係しています」と三枝は指先で図をなぞった。「まず、前頭前野。ここは意欲、計画、抑制、順序立ての中心です。次に頭頂連合野。空間認知や数の操作を担います。そして側頭連合野。形や顔の意味づけを行います」

「母さんが、料理の手順を間違えるようになったのも……」浩一が言いかけると、三枝は頷いた。「前頭前野の“順序のプログラム”が弱っているからです。料理は、順序の連続です。材料を切り、火をつけ、味を整える。その一つひとつが、前頭前野の働きによって支えられています」

恵子は、三枝の説明を聞きながら、静かに頷いていた。理解しているのかどうかは分からない。しかし、言葉のリズムに合わせて、心が揺れているように見えた。「私はね、昔は料理が好きだったのよ。浩一が小さい頃、よくお弁当を作ったわねえ」恵子はそう言って、遠い記憶を手繰るように目を細めた。

「その記憶は、海馬が守っているんです」三枝は優しく言った。「認知症になっても、海馬の情動記憶は残ることが多い。だから、好きだったこと、嬉しかったことは、最後まで心に残るんです」

最新研究では、海馬の情動記憶が前頭前野の萎縮よりも長く保たれることが示されている。DeCaAI(SSE-AI)の解析でも、情動記憶の保持は、認知症の進行度とは必ずしも比例しないことが分かってきた。脳は、単なる機械ではなく、複雑な層を持つ“心の器”なのだ。

三枝は、脳の連合野の図を広げたあと、もう一枚の紙を取り出した。 それは、恵子の脳活動を解析した結果を示す、淡い色のグラフだった。

「これは、DeCaAIという認知症ケア補助人工知能で、正式には SSE-AI(Semantic & State Estimation AI) といいます。認知症の方の“脳の現在地”を読み解くための解析モデルです」

浩一は、紙面に並ぶ曲線を見つめた。 それは、心拍の揺らぎ、感情の波、注意の途切れ、 そうした“目に見えない心の動き”を数値として描いたものだった。

「人の心は、言葉よりも先に身体に現れます。このAIは、心拍変動(HRV)や微細な表情の変化を読み取り、前頭前野や側頭連合野がどれほど働いているかを推定するんです」

三枝は、恵子のグラフの一部を指さした。

「ここを見てください。  この波形は、前頭前野の“順序立てる力”が弱っているときに出る特徴です。  料理の手順が分からなくなるのも、写真の意味が曖昧になるのも、  この波形と一致しています」

浩一は、母の脳が静かに語っているような気がした。 言葉ではなく、波形で。 記憶ではなく、揺らぎで。

「認知症は、ただ忘れる病気ではありません。脳の森の中で、道が少しずつ細くなっていく病気です。DeCaAIは、その森の地図を描くための道具なんです」

三枝の声は、冬の光のように静かで、しかし確かな温かさを帯びていた。

その日の午後、三枝は恵子に簡単な課題を行った。「恵子さん、指を鼻、耳、口の順に触れてみてください」恵子は、鼻には触れた。しかし、次の耳に進めない。手は宙で止まり、どこへ向かうべきか分からないというように、ゆっくりと揺れた。「これは、運動連合野の“順序のプログラム”がうまく働いていないときに起こる症状です」と三枝は説明した。「でも、鼻や耳や口の意味は理解できています。これは“できない”のではなく、“順序を組み立てる脳の機能が弱っている”だけです」

浩一は、母の手の動きを見ながら、胸が締めつけられるような思いを抱いた。母は、何も忘れたわけではない。ただ、脳の中の“順序の道”が少し迷っているだけなのだ。森の奥で道を見失った旅人のように、心の地図が揺らいでいるだけなのだ。

夕方、恵子は食事を拒んだ。スプーンを手に取ろうとせず、皿を見つめたまま動かない。「食べましょう」とスタッフが声をかけても、恵子は首を振った。三枝は、その表情を見てすぐに気づいた。「これは怒りではなく、不安です。前頭前野の障害で、“次に何が起こるか”が分からないのです。不安は拒否として現れます」

三枝は、恵子の手をそっと握り、「これ、あなたの好きな味ですよ。ゆっくりでいいですよ」と声をかけた。恵子は、少しだけ微笑み、スプーンを口に運んだ。その瞬間、浩一は、母の心がまだここにあることを確信した。

認知症とは、失われていくばかりの病ではない。脳の奥底に残る光を探し当てる旅でもある。恵子の心は、森の奥で迷いながらも、確かにそこに存在していた。浩一は、その光を見失わないように、母の手をそっと握り続けた。

第三章 「心の森を歩くAI――見えない揺らぎを聴く者たち」

村上浩一は、母・恵子の部屋の障子を開け、布団の上で丸くなっている母の姿を見つめた。恵子は、目を閉じたまま、何かを思い出すように眉をわずかに動かしていた。眠っているのか、起きているのか、その境界が曖昧なまま、静かに呼吸をしていた。

その日の午前、三枝紗耶が訪れた。手には、小さなタブレット端末が握られていた。冬の光を受けて、その画面は淡く輝いていた。「今日は、少し新しい方法で、お母さまの“心の揺らぎ”を見てみましょう」三枝はそう言って、端末を机の上に置いた。浩一は、端末の画面に映る波形を見て、胸の奥に不思議な期待が生まれるのを感じた。

「これは、DeCaAI――正式には 認知症ケア補助人工知能でSSE-AI(Semantic & State Estimation AI)といいます」三枝は、画面を指で軽くなぞりながら説明を始めた。「認知症の方の“心の状態”を、言葉よりも先に読み取るためのAIです。心拍変動(HRV)、表情の微細な動き、声の抑揚、沈黙の長さ……そうした“目に見えない心の揺らぎ”を統合して、脳のどの部分がどれほど働いているかを推定します」

画面には、恵子の心拍の波形が静かに揺れていた。規則的な波の中に、時折、細い乱れが混じっている。その乱れは、まるで森の中で風が一瞬だけ方向を変えるような、微細な変化だった。「この波形は、前頭前野の“順序立てる力”が弱っているときに出る特徴です」三枝は、波形の一部を指さした。「昨日、指を鼻、耳、口の順に触れる課題で迷われたのも、この波形と一致しています」

浩一は、画面の波形を見つめながら、母の脳が静かに語っているような気がした。言葉ではなく、波形で。記憶ではなく、揺らぎで。恵子の心は、森の奥で迷いながらも、確かにそこに存在していた。

「認知症は、ただ忘れる病気ではありません」三枝は、端末を閉じながら言った。「脳の森の中で、道が少しずつ細くなっていく病気です。DeCaAIは、その森の地図を描くための道具なんです。どこで道が細くなり、どこで広がり、どこに光が残っているかを教えてくれます」

その日の午後、三枝は恵子に音楽を聴かせた。昔、恵子が好んでいた童謡だった。音楽が流れ始めると、恵子の表情がわずかに変わった。目の奥に柔らかい光が宿り、口元がゆっくりと緩んだ。「この反応は、海馬と大脳辺縁系が働いている証拠です」三枝は、端末に映る波形を見ながら言った。「情動記憶は、認知症になっても最後まで残ることが多いんです」

最新研究では、海馬の情動記憶が前頭前野の萎縮よりも長く保たれることが示されている。SSE-AIの解析でも、情動記憶の保持は、認知症の進行度とは必ずしも比例しないことが分かってきた。脳は、単なる機械ではなく、複雑な層を持つ“心の器”なのだ。

音楽が終わると、恵子は静かに言った。「この歌、昔、浩一と一緒に歌ったわねえ」その言葉は、冬の光のように淡く、しかし確かな温かさを帯びていた。浩一は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。母は、まだ母のままだった。

夕方、三枝は、恵子の歩行を観察した。廊下をゆっくり歩く恵子の足取りは、時折、わずかに揺れた。「これは、頭頂連合野と小脳の連携が弱っているときに出る特徴です」三枝は、端末に映る歩行解析の波形を見ながら言った。「でも、歩けています。これは大切な残存能力です」

浩一は、母の背中を見つめながら、心の奥に静かな決意が生まれるのを感じた。母の心は、森の奥で迷いながらも、確かにそこに存在している。DeCaAIは、その森の地図を描き、光の残る場所を教えてくれる。母の心の光を見失わないために、浩一はその地図を手に取り、母とともに歩くことを選んだ。

夜、恵子は布団の中で静かに眠っていた。呼吸は穏やかで、表情は柔らかかった。浩一は、母の枕元に座りながら、三枝の言葉を思い返していた。「認知症は、失われていくばかりの病ではありません。脳の奥底に残る光を探し当てる旅です」その言葉は、冬の夜の静けさの中で、ゆっくりと胸に染み込んでいった。

恵子の心は、森の奥で迷いながらも、確かにそこに存在していた。DeCaAIは、その森の地図を描き、光の残る場所を教えてくれる。浩一は、その光を見失わないように、母の手をそっと握り続けた。

冬の夜は、静けさの中にどこかしら深い余韻を含んでいる。村上浩一は、母の枕元に座りながら、三枝紗耶の言葉を反芻していた。認知症とは、ただ記憶が薄れていく病ではなく、脳の奥底に残る光を探し当てる旅である――その言葉は、恵子の穏やかな寝息とともに、ゆっくりと胸に沈んでいった。

RDRが描き出した「過去の地図」は、恵子の人生の地層を静かに照らし出した。広島の空、明石の海、神戸の坂道。家族構成の変化、生活の節目、初発症状の兆し。それらは、恵子の心がどこで揺らぎ始め、どこで道を見失いかけたのかを示す、淡い光の点々であった。

一方、DeCaAI(SSE-AI)が示した「現在の地図」は、恵子の脳が今どのように働き、どこに光が残り、どこが細くなっているのかを、波形として静かに語っていた。心拍の揺らぎ、表情の微細な変化、歩行のリズム。言葉ではなく、身体の奥底から立ち上がる“心の声”が、AIの画面に淡く刻まれていた。

過去と現在――二つの地図が重なったとき、浩一は初めて母の心の輪郭を捉えたような気がした。母は、森の奥で迷いながらも、確かにそこに存在している。名前を忘れても、優しさは覚えている。順序を間違えても、好きだった歌には微笑む。脳の森の中で細くなった道の先に、まだ光が残っている。

その光を見失わないために、ケアは「できないこと」を数えるのではなく、「まだできること」に寄り添う必要がある。三枝紗耶は、そのための地図を二つ手にしていた。RDRが描く人生の地層と、DeCaAIが描く脳の現在地。その二つを重ね合わせることで、認知症ケアは単なる介護ではなく、“心の旅の伴走”へと姿を変える。

夜が更けるにつれ、恵子の呼吸はさらに穏やかになった。浩一は、母の手をそっと握りながら、これから始まる旅の続きを思った。母の心の森は、まだ奥へと続いている。そこには、過去の記憶の断片と、今の揺らぎと、これからの光が混ざり合っている。

後編では、三枝紗耶と佐伯医師が、恵子の脳の森をさらに深く歩き、 「ケアの新しいあり方」――脳科学とAIが導く未来のケアモデルを描き出していくことになる。

心の森の入口に立った浩一と恵子の旅は、まだ静かな息づかいを保ったまま、 これから開かれる未知の光景へと、ゆっくり歩みを進めようとしていた。 その続きは、後編へとつながっていく――。

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