塩井純一
「ぼくたちはどう老いるか」
高橋源一郎著、朝日新聞出版、2025年12月刊
72歳になった著者は「老い」を自覚し、それとどう向き合うかを、先人の著作から学ぼうとします。
哲学者・鶴見俊輔(享年93歳)が自身の老いと向き合った「もうろく帖」、漫画家・ハルノ宵子が父・吉本隆明(享年87歳)の晩年を綴った「隆明だもの」、有吉佐和子の「恍惚の人」、私小説家・耕治人が認知症の妻を介護する日々を書き付けた最晩年の3著作「天井から降る悲しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」を解説し、考察します。「どんなご縁で」「そうかもしれない」の2作は、認知症の妻が耕治人に実際に呟いた切ない言葉を本のタイトルにしています。私自身が80歳になろうとしている段階で、身につまされる話題満載。私だったら孟子、荘子、老子あたりの古典著作を考えるところですが、著者高橋源一郎の選択も理に適っており、また彼による手引きにも、大いに助けられました。
老いに関心のある方には、お薦めです。ただ本書を論考しようとすると、彼の選んだそれぞれの著作解説を更に解説するような具合になりそうで、その愚を避けるには、原作を読む必要がありそうです(「恍惚の人」は大分前に既読)。私自身が認知症の研究者である事もあり、有吉佐和子と耕治人の著作に関心が向きますし、また高橋源一郎の論考も後半に入り、この二人の著作により力が入っているように感じました。私の読書計画に入れました。

「憤怒の人 母・佐藤愛子のカケラ」
杉山響子著 小学館、2026年1月刊

先日感想文を書いた「ぼくたちはどう老いるか」(高橋源一郎著)の中で幾つかの本が紹介されていたのですが、私なりの付け足しとしてこの本を取り上げました。今年(2026年)4月29日に102歳で往生した佐藤愛子の晩年、認知症化が綴られており、前半は一気に読んでしまいました。後半は作者・杉山響子(1960年生まれ)と母・佐藤愛子との60年余にわたる思い出・愛憎が綴られています。佐藤愛子は日ごろ「私は人間に興味があるのよ」と娘に言っていたそうですが、その娘の人間観察も鋭く、強烈個性の「憤怒」の母だけでなく、その母に振り回される周囲の人々もよく観察しています。また、文章力も母譲りか、或いは母の特訓の賜物かと思わされる筆力を感じました。母・愛子が亡くなってからでは、良い思い出しか書けなくなる、悪口は書けなくなると見越して、母の生前に、言いたい事を書けたと述解しています(本書を昨年の2025年12月12日に書き終えています)。8歳で母子家庭となった一人娘の、緊密な関係だった母への切ない想い、また複雑・苦渋な想いも伝わってきました。
認知症の母についての記述を少し引用。「早朝六時。―――母の声で目が覚めたが、その声はどこか遠くからだった。―――カーテンを開けて表をみると玄関扉が開いている。パジャマ姿の母が声を張り上げていた。―――『私は佐藤藍子です。監禁されています。警察を呼んでください。助けてください』―――駆けつけるとちょうどお向かいの家のご主人が、母に手を貸して玄関を入ってくるところだった。『すみません。このところこんな調子で』―――失意とパニックと恥ずかしさの中、母をなだめて寝かしつけた。―――住宅街の静かな朝、母は自ら重篤な認知症であることを公表してしまった。これからどうすればいいだろう」。同じく認知症の母をもつ友人の「母にかかわるのが怖いのよ」の言葉を受けた本作者の返信も引用。「私たちは今を必死に生きる。未来が不安だから今を戦う。けれど母たちには未来はない。あるのは目の前の一瞬と過去だけ、その過去の出来事も夢うつつになっていく。私たちは現実をおざなりにして、その夢うつつにつきあっていくことはできない。それは悪でも残酷でもないと思う。―――死は死んでいく者よりも、残った者にとっての試練―――。だから後悔して泣いて、最後は感謝の思いをもって弔おう。立派に子としての役目を果たそう。」なかなかの洞察・親子関係論だと感心しました。
ヒトの「成長物語」が三者三様であるように、「老化物語」もそれぞれの長かった個別人生を背負って千差万別の経過を辿ると言えます。しかしその上で、何も知らない、判らない「赤子として生まれ」、最後は何も判らない「赤子に戻る」とヒトの一生を総括できるのかなとも考えさせられました。文明の恩恵による長寿化の副作用でしょうね