Science park, August 26th 脳と心の35億年史

─人間らしさはどこから生まれたのかー(前編)

脳という奇跡、心という謎

私たちは日々、喜びや悲しみ、愛情、怒り、そして想像力といった多様な「心」の動きを感じながら生きています。

では、この「心」はどこから生まれ、どのようにして人間の中に宿ったのでしょうか。

古代の医家や哲学者たちは、心の座を内臓や脳、心臓などに求めてきました。

しかし現代の脳科学は、心とは脳の働きそのものだと明らかにしています。

「刻々と変わる『心』は、全て『脳』の働きによるもの…ではないでしょうか?」

脳は35億年にわたる進化の結晶であり、心はその中に芽生えた最も高度な機能です。

今回は、脳と心の進化をたどりながら、「その人らしさ」がどこから生まれたのかを探っていきます。

心の座を求めた人類の歴史

人類は古来より、「心はどこにあるのか」という問いを繰り返してきました。

この問いは単なる哲学的興味ではなく、「人間とは何か」という根源的なテーマと深く結びついています。

古代中国の医家たちは、心の働きを五臓六腑の中に見いだし、身体の内部に宿る生命力の一部として心を捉えました。

一方、ギリシャの哲学者たちは、心の座を身体のどこに求めるべきかについて激しく議論を重ねています。

プラトンは心は脳に宿ると考え、アリストテレスは心臓こそ感情の中心であると主張しました。

さらに時代が下ると、デカルトは脳の松果体に心の座があると述べ、心と身体を二元的に分ける「心身二元論」を提唱しました。

こうした歴史的な議論は、心の正体を求める人類の長い探求の軌跡そのものです。 しかし、脳科学が飛躍的に発展した現代において、私たちはこの問いに対してより明確な答えを持つようになりました。

心とは、脳内の膨大な情報処理の流れによって生まれる現象であり、脳の構造や活動から切り離して存在するものではありません。

脳は大脳・小脳・脳幹という三つの主要構造から成り立ち、約860億個の神経細胞(ニューロン)が数百兆のシナプスで結びつき、複雑なネットワークを形成しています。 このネットワークを情報が駆け巡るとき、そこに「心」が生まれます。

「刻々と変わる『心』は、全て『脳』の働きによるものなのです」。

つまり、心とは脳の活動そのものの表現であり、脳の情報処理が生み出すダイナミックな現象なのです。

近年の神経科学は、心の働きを脳の特定部位に固定する考え方から離れつつあります。 感情、記憶、意思決定、共感といった心の機能は、脳の一部だけで生まれるのではなく、複数の領域が同時に活動することで生じます。

恐怖や不安を処理する扁桃体、意思決定や社会的判断を担う前頭前野、記憶の形成に関わる海馬、そして自己意識や内省を司るデフォルトモードネットワーク(DMN)。

これらの領域が連携し、情報を交換し合うことで、私たちは「心」を体験しているのです。

さらに脳は固定された器官ではなく、経験によって構造が変化する「可塑性」を持っています。 この可塑性こそ、心が刻々と変化し続ける理由です。

新しい経験は脳のネットワークを再編成し、心の在り方を変えていきます。

この柔軟性は、学習や記憶の基盤であると同時に、心の脆さを生む要因にもなっています。

私は、長年にわたり認知症の本質とそのケアの在り方を研究してきました。 その研究の過程で強く感じるのは、認知症とは単なる記憶の病ではなく、脳のネットワークが揺らぐことで「心の働き」が変容していく現象であるということです。

心が脳の活動そのものだとする現代脳科学の視点は、認知症の理解に深い示唆を与えてくれます。

ここからは、心の起源を探る人類史の流れを踏まえつつ、 認知症とは何か、そして認知症ケアとは何を支える営みなのか という問いにも少し触れてみたいと思います。

心の座を求めた人類の歴史を辿ることは、認知症の起源を理解するための重要な前提となります。 心がどのように生まれ、どのように進化し、どのように脆さを抱えるようになったのか。

その歴史を知ることは、認知症ケアの本質に近づく道でもあるからです。

認知症は脳の神経ネットワークが障害されることで起こりますが、最新研究は重要な知見を示しています。

記憶障害、判断力の低下、感情の変化などは、脳のネットワークが崩れることで生じます。

つまり、認知症は「心の座」が揺らぐ病であると言えます。

しかし、認知症が進行しても、音楽への反応、他者の表情への反応、やさしさへの感受性、愛着行動など、心の深層にある働きは長く保たれることが分かってきました。 これは、心が脳の一部ではなく、脳全体のネットワークに広く分散しているためと考えられています。

脳が巨大化し、複雑なネットワークを持つようになったことで、高度な心が生まれました。

しかし同時に、その複雑なネットワークは壊れやすいという宿命も背負いました。

脳の進化が心を生み、その心の複雑さが認知症の脆弱性を生んだとも言えるのではないでしょうか。

ネアンデルタール人が示した“やさしさ”

─心の起源と人間性の誕生―

人間の心は、いつ、どのようにして生まれたのでしょうか。

この問いに向き合うとき、私たちは現代人の脳だけを観察していては十分ではありません。

心の起源は、私たちの祖先がどのように生き、どのように仲間と関わり、どのように死を受け止めたかという「生活の痕跡」の中にこそ宿っているからです。

北イラクのシャニダール洞窟で発見されたネアンデルタール人の遺構は、その痕跡を最も鮮明に伝える証拠のひとつであり、心の進化を考えるうえで欠かせない資料となっています。

窟の地層から発見された一体の男性の骨は、左目が不自由で、右腕を失い、歯が極端に摩耗していました。

狩猟採集生活の厳しさを考えれば、このようなハンディキャップを抱えたまま長く生き延びることはほぼ不可能であったはずです。

それでも彼は生きました。仲間が食料を運び、身の回りの世話をし、支え続けたからです。

この事実は、単なる生存戦略ではなく、弱者を見捨てずに支えるという「心の働き」がすでに芽生えていたことを示しています。

他の動物には見られない介護行動が、すでに4万5千年前の人類に存在していたのです。

この介護行動は、現代の神経科学が示す「社会脳」の働きと深く結びついています。他者の痛みを自分のことのように感じ取る前帯状皮質、他者の情動を共有する島皮質、そして他者の立場を理解しようとする前頭前野。

これらの領域は、現代人だけでなくネアンデルタール人にも十分に発達していたことが、化石から推測される脳容積や頭蓋形態の分析から明らかになっています。つまり、ネアンデルタール人は「心の基盤」をすでに持っていた可能性が高いのです。

さらに興味深いのは、同じ洞窟のより深い地層から発見された別の人骨です。

そこには、タチアオイやアザミなどの薬草の花粉が大量に付着していました。

これらの植物は自然に群生するものではなく、仲間が意図的に集めて花束として捧げたと考えられています。

胸の上に花を置いた痕跡まで残っていることから、死者を弔う儀礼がすでに存在していたことがうかがえます。

死者に花を捧げるという行為は、死の意味を理解し、死を特別な出来事として扱う心の働きを示しています。

死を理解するには、「生」と「死」という抽象概念の区別、自分とは異なる他者の状態を理解する能力、そして見えない世界を想像する力が必要です。

これは現代の認知科学でいう「心の理論」の発達を示すものであり、現代人では幼児期に芽生える高度な認知能力です。

ネアンデルタール人が死者に花を捧げたという事実は、彼らがすでに高度な心の働きを持っていたことを示す重要な証拠と言えます。

こうした行動は、ネアンデルタール人が粗野で暴力的な存在であったという古いイメージを覆します。

彼らは火を使い、道具を作り、仲間と協力しながら暮らしていました。

弱者を支え、死者を悼むという行為は、心の成熟を象徴する文化的営みであり、心の進化がすでに始まっていたことを示しています。

ネアンデルタール人の行動を見ていると、心の起源は「関心」から始まったのではないかという仮説が浮かび上がります。

仲間の痛みに関心を持ち、弱者の生活に関心を持ち、死者の存在に関心を持ち、見えない世界に関心を持つ。

この「関心」という心の働きは、現代の人間にも深く受け継がれています。

そして、私が研究している認知症ケアの現場でも、関心は極めて重要なキーワードです。

認知症の方は記憶や判断力が低下しても、他者の表情や声の調子に対する関心は長く保たれることが知られています。

これは、心の深層にある働きが、太古の祖先から現代まで連綿と続いていることを示しているのではないでしょうか。

ネアンデルタール人が示した“やさしさ”は、単なる歴史的事実ではなく、現代の私たちが持つ心の根源であり、認知症ケアの現場で見られる「心の持続性」を理解するための重要なヒントでもあります。

心は脳の働きであり、脳は進化の歴史そのものです。

その進化の中で、人間は弱者を支え、死者を悼み、仲間を思いやる心を育ててきました。

その心の系譜は、認知症の方の中にも確かに息づいています。

シャニダール洞窟に残された花束は、現代の認知症ケアにおける「その人らしさ」を支える営みと、静かに響き合っているのです。

社団法人認知症高齢者研究所
Senior Dementia Institute

〒224-0032 神奈川県横浜市都筑区茅ケ崎中央20−14 松本ビルB館 4F
TEL:045-949-0201 FAX:045-949-0221
Copyright © 2018 Senior Dementia Institute. All Rights Reserved.


PAGE TOP