
人間の脳は、快楽そのものではなく、「次に何が起こるのか」という 予測 を求め続ける。
その性質は、私たちの日常の中で静かに働き、ときに依存となり、ときに行動の原動力となる。
そしてこの仕組みは、認知症の世界ではさらに強く、さらに純粋な形で現れる。
認知症の方が見せる つきまとい、同じ質問の反復、不安、怒り、幻覚、妄想。これらは単なる「症状」ではない。
脳が必死に 予測を取り戻そうとする行為なのだ。
夕暮れのデイサービスに、やわらかな西日が差し込んでいた。窓辺の観葉植物の影が床に揺れ、フロアには一日の終わり特有の静けさが流れていた。
レクリエーションが終わり、利用者たちはそれぞれ席へ戻っていく。笑い声も落ち着き、湯のみ茶碗の触れ合う音だけが残っていた。そのとき、一人の男性が椅子にもたれ、ぽつりとつぶやいた。
「今日は、なんだかつまらんな」と男性がつぶやいた。スタッフのミサはその言葉に足を止めるのだった。

今日もいつも通りに手の体操や計算問題、しりとりを行い、皆で声を出して笑った場面もあったのに、それでも「つまらない」と感じている理由は、単純な作業を繰り返しても評価や祝福がなければ張り合いも生まれず面白みを感じられないからなのか、、、
しかし、もし正解するごとに拍手や祝福、賞品がもらえるとしたら、こんな単純なテストでも楽しくなり、脳は祝福の拍手や声援を報酬とすぐに関連付けて、やる気や満足感につながるのです。
そして、脳内報酬系の神経伝達物質であるドーパミンを放出し、刺激と報酬の結びつきを強化させて喜びの感情が生まれるのです。
図にあるようにドーパミンは、体の中の「チロシン」という材料から作られ、神経細胞の中の小さな袋にしまわれているのです。

必要なときに袋から外へ出され、となりの神経細胞に信号を伝える。
ドーパミンが受容体にくっつくと、細胞の中でスイッチのような反応が起こり、最終的には遺伝子の働きまで変わるのです。
図は、作られる→出される→受け取られる→細胞の中が変化する、という一連の流れを分かりやすく示している。
しかし、喜びの感情はやがて衰退してしまい同じようなことでは喜びを感じなくなってしまうのです。
人はある種の喜びを味わうと、それだけでは満足しなくなってしまうのです。
更なる“欲望”が更なる“依存”が生まれ更なる強い報酬を求めようと行動するようになるのです。
この仕組みをうまく使って、繰り返し刺激を与えるとパーキンソンやDLB(レビー小体型認知症)の方のケアには効果的です。
また、この回路は快感をもたらす他の刺激にも反応します。おいしい食べ物や表情などにも…
天気がよい日や曇りの日などの気持ちの変化にも…

先ほどのテストでは、あなたの脳が報酬を期待するように仕向けて祝福していたのですが、逆に、それが得られなくなった瞬間には、物足りなさを感じて不満になるのです。
依存と不満は、どうやら深い関係があるようだ。
ミサは男性の向かいに腰を下ろして「では、少しだけ頭の体操をしませんか」男性は面倒そうに眉を上げたが、どこか嬉しそうでもあった。

「冷蔵庫に対するのがキッチンなら、革靴に対するのは?」
「玄関だろ」
「机に対するのが家具なら、三角形に対するのは?」
「図形だ」
「チョコレートに対するのが甘いなら、梅干しに対するのは?」
男性は少し笑って答えた。
「酸っぱいに決まってる」
見事に全問正解だった。けれど男性は腕を組み直し、少し肩をすくめた。
「……それで?」ミサは思わず吹き出した。「そこなんです」男性は怪訝そうな顔をした。
「正解しても、何も起こらないでしょう?」
そう言うとミサは、突然大きく拍手をした。「すごいです! 全問正解です! 今日の優勝者ですね!」周囲にいた利用者たちも、何事かと振り向き、つられて手を叩いた。
男性は驚いた顔をしたあと、照れくさそうに笑った。
「なんだそれ」・・・だが、その頬には先ほどまでなかった赤みが差していた。
ミサは知っていた人は、答えを出しただけでは満たされないことを誰かに認められること、褒められること、役に立ったと感じること、その瞬間に、人の心はふっと灯る。
近ごろの脳科学では、やる気や意欲に深く関わるドーパミンという物質は、ただ快楽を生むだけではなく、「何か良いことが起こりそうだ」と感じたときに強く働くとされている。
つまり人は、幸せそのものより、幸せが近づいてくる気配に胸を躍らせるのだ。
男性は湯のみを持ち上げながら、ふと窓の外を見た。
「若いころはな、営業だったんだ。表彰なんかされると、また頑張ろうって思ったもんだ。」
「今も同じですよ」とミサは言った。
「人は、いくつになっても嬉しいことには反応します。」
男性は鼻で笑った。「歳を取ると、そういうのはなくなると思ってた!」
「なくなりません。形が変わるだけです」その言葉に、男性はしばらく黙っていた。
少し離れた場所では、一人の女性利用者が落ち着かない様子で立ち上がっていた。出口の方を見つめ、何かを探すように歩き出す「帰らなきゃ、子どもが待ってる」
ミサはそっと近づいた「そうでしたか、お母さん、きっと忙しかったんですね」
女性はミサを見つめた。

「夕飯、まだなの」「では、その前に少しお茶を飲みませんか。今日はあたたかいのがありますよ」女性は立ち止まり、しばらくして頷いた。
ミサは知っていた認知症の方の行動には、理由があることを帰りたいのではなく、安心したいのかもしれない。
子どもが待っているのではなく、誰かを守っていた頃の記憶が動いているのかもしれない行動だけを止めても、心は止まらない。
心が落ち着けば、行動は静かになることがある。だからミサは、目の前の行動ではなく、その奥にある“揺れている心”に寄り添おうと決めた。不安を言葉にできない人の代わりに、その気持ちを受け止めることこそが、安心へつながると知っていたからだ。
しかし、人が誘惑に勝てないのは何故だろう。それは、脳が欲望に対して抵抗する力に限界があるし、意志の力だけで誘惑と闘おうとしても、脳の仕組み上どうしても不利になる
意志をつかさどる前頭前皮質は進化的に新しく、まだ脆い。
一方で、快感や期待を生み出す側坐核や扁桃体などの“原始的な脳”は強力で、依存行動を引き起こしやすい。
誘惑に打ち勝とうと思うなら、意志で押し返すのではなく、歌を歌ったり、その場を離れたりして“脳の流れ”を変えるほうが効果的だ。これは前頭側頭型認知症(FTD)のケアにもつながる。
人は、いくら誘惑を避けようと頑張っても難しい。しかし、何かにはまりやすい脳の性質を逆に利用すれば、良い効果が生まれる。
その一例として、簡単な迷路を解いてもらう実験がある。

迷路を解いている間にメロディを流し、終わったあと「何か曲を思い浮かべてください」と声をかけると、多くの人が先ほどの曲を思い出す。
これはイヤーワームと呼ばれる現象で、繰り返しが多く、テンポが速く、リズムに乗りやすいメロディほど脳に残りやすい。
脳はシンプルで予測しやすい刺激を好むため、こうした曲は“こびりつく”ように頭の中で再生される。
イヤーワームは、認知症の方の不安を和らげるための“心のリズムづくり”にも応用できる

依存のメカニズムは理解できただろうか、、、
しかし、多くの人は「自分には関係ない」と思ってしまう。火事で燃えていても他人の運命には興味がないし、我慢なんてしたくない。
ヒット曲を口ずさむ習慣もない。それでも、誰もが何かに依存している可能性がある。
たとえば、スマートフォンだ。
大事な会議中でも着信音がするとつい見たくなる。ある調査では、人が無意識に反応してしまう音の上位に、肉が焼ける音、国歌、レジの音、携帯電話の着信音、そして1位は赤ちゃんの笑い声が挙げられている。
着信がなくても、一日に何度もスマホを確認してしまうのはなぜなのだろう。

私たちは、まるでパブロフの犬のように“鳴るかもしれない音”に反応する。
最新の研究では、ドーパミンが最も高くなるのは、賭けに勝った瞬間ではなく、その直前だと分かっている。
スマホをチェックするたびに、脳は「何か良い知らせが届いているかもしれない」という期待で報酬を得る。
友人からのメッセージでも、天気予報でも、通知の内容は関係ない。
期待そのものが脳を刺激するのだ。つまり、私たちが欲しているのは“幸せそのもの”ではなく、“幸せを追い求める行為”なのかもしれない、ミサは女性の手をそっと包みながら思った。
人は皆、何かを求めて心が揺れる。その揺れを責めるのではなく、理解し、寄り添うこと。
それが、安心へとつながる道なのだ・・・と。
しばらくして、フロアのスピーカーから昔の流行歌が流れ始めた。
男性の指先が、机の上で自然にリズムを刻み出す。
「この歌、まだ覚えてる」
「頭の中に残っているんですね」
「朝聞いた歌が、夜まで離れんこともある」
「ありますね。脳は好きなものを繰り返すんです」
男性は笑った。
「じゃあ、わしはまだ大丈夫だな」
「もちろんです」
帰りの送迎車が来るころ、真由は男性に声をかけた。
「明日、お願いがあるんです」
「なんだ?」
「レクリエーションの司会、やってもらえませんか」
男性は目を丸くした。
「わしが?」
「ええ。あなたがいると、みんな笑いますから」
男性は言葉を失ったように黙り込み、それから静かに背筋を伸ばした。
「……じゃあ、来るしかないな」
外はもう夕焼けだった。窓ガラスに映るその横顔は、朝より少し若く見えた。人は、幸せそのものに生かされているのではない。明日は何かあるかもしれない。
誰かが待っているかもしれない。まだ自分には役割があるかもしれない。その小さな期待。その予感。その胸の奥に灯るかすかな光。
人が本当に追いかけているのは、きっと――幸せそのものではなく、幸せの訪れる気配なのだ。