
朝、まだ眠気の膜が頭に張りついている。
その奥で、小さな声がつぶやく。
「まずはコーヒーだ」。
その声に導かれるように、体は勝手に台所へ向かう。 湯気の立つカップを手にした瞬間、胸の奥で何かが“カチッ”と音を立て、 ようやく一日が動き始める気がする。
コーヒーの香りを吸い込みながら、 「これは習慣なのか、それとも依存なのか」 そんな問いが、ぼんやりと頭をかすめる。 けれど、答えを探す前に時間は流れ、私は玄関へ向かう。
通勤電車の中で、ふと気づくこと
電車に揺られながら周りを見渡すと、 誰もが同じ角度でスマートフォンを見つめている。
無表情なのに、指先だけは忙しく動き続けている。 その光景は、まるで“何かに引き寄せられている”ように見える。
「みんな、何をそんなに追いかけているんだろう」 そう自分に問いかけた瞬間、 胸の奥で別の声がささやく。
「追いかけているんじゃない。 脳が“次に何が起こるか”を知りたがっているだけだよ」
会社に着けば、メール、電話、またメール。 気づけば机の上には、飲みかけのコーヒーが三つ並んでいる。

「落ち着くために飲んでいるのか、ただの癖なのか」 それとも「依存・・・」依存と聞くと、麻薬やアルコールのような深刻な例を思い浮かべるかもしれない。
しかし、私たちの日常に潜む“やめられない何か”も、同じ脳の仕組みで動いている。
そしてこの仕組みは、認知症の世界では “隠れた主訴(Hidden agenda)” と呼ばれ、つきまとい行動や不安、幻覚や妄想の背景に深く関わっている。
人間の意志は、思っているほど強くない。いや、強くできないと言った方が正しい・・・のだと自問自答する。
そんなことを考える余裕もなく、時間だけが過ぎていく。昼過ぎ、スマホが震える。
通知を確認しようと手を伸ばす瞬間、 胸の奥がわずかにざわつく。
「見ないと落ち着かない」 その感覚が、いつの間にか生活の一部になっている。
頭の中の声が語り出す「人はなぜ誘惑に勝てないのか・・・」

「意志が弱いからじゃない」 その声は、静かに、しかし確信を持って響く。
前頭前野、意志の力を司る場所が発達したのは、 人類史の中ではごく最近、約20万年前のこと。 一方で、快楽や依存を生み出す古い脳の領域は、 数千万年の歴史を持っている。
「新参者の前頭葉が、古代の快楽回路に勝てるわけがない」 その声は淡々としているのに、妙に説得力がある。
だからこそ、誘惑に勝つには意志ではなく、 歌を口ずさんだり、場所を変えたり、 注意をそらす“環境の力”が必要になる。 これは、前頭側頭型認知症(FTD)のケアにも役立つ方法だ。
脳は“快楽”ではなく“予測”を求めている
最近の研究で、依存の中心はドーパミンだけではなく “予測誤差(prediction error)”だとわかってきた (Schultz, W. Neuron, 2024)。
脳は常に「次に何が起こるか」を予測し、 その予測が当たると快感を覚える。

消防車のサイレンを聞くと火事場を見に行きたくなるのも、 脳が「自分のストーリーと現実が一致するか」を確かめたいからだ。
さらに2025年の研究では、 “予測が外れた瞬間”にも強いドーパミン反応が起こることが示された (Niv, Y. Nature Neuroscience, 2025)。 脳は、当たりも外れも含めて「変化」を報酬として扱うのだ。
「脳はいつも To be continued を求めている」 その言葉が、妙に胸に残る。
イヤーワームをご存じだと思うが、 脳にこびりつく音の正体?
迷路を解いているときに流れたメロディが、 後になっても頭の中で勝手に再生される。 これがイヤーワーム。
脳は、 繰り返し・単純・リズム・口ずさみやすさ この四つが揃った音を強烈に好むようだ。
2024年の研究では、 イヤーワームが発生するとき、脳のデフォルトモードネットワーク(DMN)が “予測の補完”を行っていることが最近の研究で分かって来た (Li et al., PNAS, 2024)。
「依存と同じ構造だよ」 頭の中の声が、また静かに言う。「自分は依存とは無縁だ」と思っていた私へ火事場に興味はない。 流行歌も歌わない。 誘惑に弱い自覚もない・・・
でも、スマートフォンだけは別だ。 通知が鳴るとつい見てしまう。 通知がなくても、何度も画面を確認してしまう。

これは意志の弱さではない。 脳が“期待”という報酬を求めているからだ。
2025年の研究では、 SNSの“いいね”を待つときの脳活動が、 ギャンブルの「次のカードを待つ瞬間」とほぼ同じであることが示された 。(Takahashi, Nature Human Behaviour, 2025)。
ドーパミンが最も高くなるのは、 結果を受け取った瞬間ではなく、 その直前――「もしかしたら良い知らせが来ているかも」 と期待した瞬間。
だから私は、今日も何度もスマホを開いてしまう。
一日の終わりに気づくこと
ここまで考えて、ようやく理解する。 依存とは特別な人の問題ではなく、 人間の脳そのものの性質なのだと。
そしてこの仕組みは、認知症の世界でも同じように働いている。
不安、つきまとい、幻覚、妄想・・・これらはすべて、脳が「予測」と「意味づけ」を求める力が 暴走した結果なのだ。
布団に入る前、最後の通知を確認しながら思う。
「この脳の物語は、私だけのものじゃない」 そう気づいた瞬間、今日一日の景色が少し違って見えた。
次号・後編へ
依存のメカニズムがどのようにBPSDを生み、 そしてAI(DeCaAI)がその予兆をどう捉え始めているのか。 次は、その物語を語ろう。