Science park3月号ニューロシティ物語:言葉と記憶の迷宮第1部 言葉の街と記憶の鍵

第1章「静寂の朝、言葉が消えた」

朝のニューロシティは、いつもにぎやかだった。 ブローカ通りでは、発音職人たちが声帯の調律をし、文法市場では助詞や語尾が飛び交う。 けれど、その日は違っていた。

「おはよ…あれ?なんて言うんだっけ?」 「えーっと…おは…おは…」 言葉が、街から消えていた。

スパークは、いつものように「情報通り」を滑っていた。 背中のシナプス・スケートボードが、ピリピリと警告音を鳴らす。

「ん?なんだこれ…通信エラー?

いや、違う…これは…“沈黙”だ!」

彼はすぐに親友のラムちゃんのもとへ向かった。 記憶の精霊である彼女は、すでに異変に気づいていた。

「スパーク、これはただの通信障害じゃないよ。言語中枢が沈黙してるの」 「言語中枢って…ブローカ市長のところ?」 「そう。でも、彼も今は言葉が出せないの。まるで…ブローカ失語みたいに」

スパークは眉をひそめた。 「じゃあ、誰かに助けを求めないと…!」

そのとき、ラムちゃんがポケットから古びた地図を取り出した。 「この地図、昔ジャム博士にもらったの。記憶の迷宮への入り口が描かれてるのよ」 「ジャム博士って、あの伝説の…?」 「そう。脳磁図でブローカ領野の活動をミリ単位で観察したっていう、あの博士よ」

こうして、ふたりは記憶の図書館を目指して走り出した。 言葉を取り戻すための、長い冒険の第一歩が、今、始まった――

第2章「記憶の図書館とジャム博士」

記憶の丘にそびえる、古びたドーム型の建物。 それが「記憶の図書館」――かつて神経研究所と呼ばれた場所だ。

スパークとラムちゃんは、丘を登りながら息を切らしていた。

「ここが…ジャム博士のいる場所?」 「うん。でも、入るには“合言葉”が必要なの」 ラムちゃんは、そっとスパークの耳元でささやいた。

 「“記憶は、何に刻まれる?”って聞かれたら、“シナプス”って答えるのよ」

巨大な扉の前に立つと、空中にふわりとホログラムの門番が現れた。 「記憶とは、何に刻まれる?」

「シナプス!」 スパークが元気よく答えると、扉が静かに開いた。

中は、まるで神経回路のように入り組んだ書架が立ち並ぶ、不思議な空間だった。 本の背表紙には、「ブローカ失語」「海馬と近時記憶」「文法処理と前頭葉」など、見慣れないタイトルがずらりと並んでいる。

「おやおや、珍しいお客さんじゃな」

奥から現れたのは、白髪に丸メガネ、ふわふわの白衣をまとったおじいさん。 手にはぶどうジャムの瓶と、銀のスプーン。

「ジャム博士!」 ラムちゃんが駆け寄ると、博士はにっこり笑った。 「ラムにスパークか。久しぶりじゃのう。さて、今日はどんな風に脳が騒いでおるのかね?」

スパークが一気にまくしたてた。 「言葉が消えてるんです!ブローカ市長も、ウェルニケ博士も、うまく話せないんです!」

ジャム博士は目を細め、棚から一冊の本を取り出した。

 「ふむ…これは“言語中枢の沈黙”じゃな。原因は、記憶の迷宮の深部にある“鍵の断片”が失われたせいかもしれん」

「鍵の断片?」

「うむ。言葉と記憶をつなぐ“記憶の鍵”じゃ。最近の研究では、海馬が“近時記憶”を担い、そこから大脳皮質へと記憶が送られる過程で、シナプスの構造が変化していくことがわかっておる。これを“シナプス可塑性”というんじゃ」

スパークは拳を握った。 「だったら、取り戻しに行くしかない!」

ジャム博士はにやりと笑った。 「よかろう。では、これを持っていきなさい」 そう言って、博士は小さな瓶を差し出した。

中には、きらきら光る紫色のジャムが入っていた。

「これは…?」 「“記憶ジャム”じゃ。ひとさじで、忘れかけた記憶が一時的に蘇る。だが、使いすぎには注意じゃぞ。記憶が混線するからのう」

こうして、スパークとラムちゃんは、記憶の迷宮への旅に出る準備を整えた。 次なる目的地は――「シナプスの門」

第3章「シナプスの門」

記憶の図書館を出たスパークとラムちゃんは、丘を下り、神経回路のように入り組んだ道を進んでいた。

目指すは、記憶の迷宮の入り口

「シナプスの門」。

「この先にあるはずよ」 ラムちゃんが地図を見ながら言った。 「でも、気をつけて。この門は、ただの扉じゃないの。記憶の流れそのものが鍵になってるの」

やがて、ふたりの前に現れたのは、光の粒子でできた巨大なアーチ。 門の表面には、無数の神経細胞が浮かび上がり、電気信号のような光が走っていた。

「これが…シナプスの門か」 スパークは息をのんだ。門の中央に、問いが浮かび上がる。「記憶は、どのようにして刻まれるのか?」

スパークは考え込む。 「記憶って、どこかに保存されてるんじゃないの?」 ラムちゃんが首を振る。 「昔はそう思われてたけど、今は違うの。記憶は“シナプス”の変化として刻まれるのよ」

「シナプス…って、神経細胞のつなぎ目のことだよね?」 「そう。海馬から送られてきた情報が、大脳皮質の神経細胞を刺激すると、シナプスの形や数が変わるの。それが“記憶の痕跡”になるのよ」

「つまり、記憶って“通った道”が強くなるってことか」 「その通り!それを“シナプス可塑性”って呼ぶの。繰り返し使うことで、情報の通り道が太く、速くなるのよ」

スパークはうなずき、門に手をかざした。

「記憶は、シナプスの変化に刻まれる!」

その瞬間、門が光を放ち、ゆっくりと開いていく。 中からは、まるで神経回路を模したような、光の迷宮が広がっていた。

「ようこそ、旅人たちよ」 どこからともなく声が響く。現れたのは、時間の精霊“カイロス”。 彼は、記憶の流れを見守る存在だった。

「ここは“近時記憶の回廊”。最近の出来事が、まだ柔らかく、揺れやすい記憶として漂っておる。だが、気をつけるがよい。記憶は、感情と結びついておる。次に向かう“扁桃体の森”では、感情の嵐が待っておるぞ」

スパークは、記憶ジャムの瓶を握りしめた。 「よし、行こう。言葉を取り戻すために!」

こうして、ふたりと一柱は、記憶の迷宮の深部へと足を踏み入れた。 次なる目的地は――「扁桃体の森」。

第4章「扁桃体の森と感情の嵐」

迷宮を進むスパークとラムちゃんの前に、深い霧が立ちこめる森が現れた。 木々は脈打つように揺れ、葉の一枚一枚が感情の色を放っている。赤は怒り、青は悲しみ、金は喜び、黒は恐怖。

「ここが…扁桃体の森」 ラムちゃんが声をひそめる。 「感情の記憶が渦巻く場所よ。ここでの体験は、記憶の定着に強く影響するの」

スパークが一歩踏み出すと、空気が震えた。 突如、空が赤く染まり、怒りの精霊“アングリス”が現れる。

「お前たち、なぜここに来た!」 怒りの波動が森を揺らし、記憶の道が歪み始める。

「落ち着いて!」 ラムちゃんが叫ぶ。 「感情が強すぎると、記憶が混線するわ!」

スパークはポケットから“記憶ジャム”を取り出し、ひとさじを口に含んだ。 すると、彼の中に浮かんだのは、幼い頃、母の声に安心した記憶。 その温もりが、怒りの精霊を静めていく。

「感情と記憶は、つながってるんだね…」 「そう。扁桃体は、記憶に“色”をつけるの。だから、強い感情のある記憶ほど、忘れにくいのよ」

森の奥に、光る道が現れた。 それは、次なる目的地――“意味の迷宮”へと続いていた。

第5章「意味の迷宮と言葉のかけら」

ふたりがたどり着いたのは、複雑に入り組んだ回廊。

壁には無数の言葉が浮かび、意味を持たない音がこだまする。

「ここが…ウェルニケ博士の領域、“意味の迷宮”」 ラムちゃんがつぶやく。 「言葉の意味を理解する中枢、ウェルニケ領野に対応する場所よ」

迷宮の中では、言葉がバラバラに飛び交っていた。 「カラフルな…トマトが…飛んで…えーと…」 意味をなさない言葉が、空中で泡のように弾けていく。

「これは…ウェルニケ失語の症状と同じだ」 スパークがつぶやく。 「言葉は話せるけど、意味が通じない…」

迷宮の中心には、“意味の泉”があった。 泉の水面には、過去の会話の断片が映し出されていた。

「ここで、言葉の意味を取り戻せるかもしれない」 ラムちゃんが泉に手をかざすと、言葉のかけらが集まり、文になっていく。

「言葉は、意味と音の橋を渡って、心に届く」

「この橋が壊れると、言葉はただの音になるんだね」 「そう。弓状束――ブローカとウェルニケをつなぐ神経の橋が、言葉の理解と発話をつないでいるの」

泉の奥に、光の階段が現れた。 それは、記憶の塔へと続く道だった。

第6章「記憶の塔とエングラム」

光の階段を登りきった先に、そびえ立つ巨大な塔があった。               その名も“記憶の塔(Tower of Engrams)

塔の外壁には、光の文様が刻まれていた。 それは、過去の記憶が“痕跡”として残されたもの。 一つひとつが、誰かの人生の一瞬を映し出していた。

「ここが…記憶の最終保存庫」 ラムちゃんがつぶやく。

「海馬で形成された記憶は、やがてこの塔“大脳皮質の連合野”に送られて、長期記憶として定着するの」

塔の中は、静寂に包まれていた。 だが、奥へ進むにつれて、スパークの胸に奇妙な違和感が広がっていく。

「なんだろう…ここ、懐かしいような、怖いような…」 「それは、あなたの記憶の痕跡よ」 ジャム博士の声が響く。 「この塔には、君の記憶も刻まれておる。だが、何かが欠けておるようじゃな」

塔の中心に、“記憶の鍵”が浮かんでいた。 だが、それはひび割れ、光を失っていた。

「これが…言葉と記憶をつなぐ鍵…」 スパークが手を伸ばすと、塔全体が震え、記憶の断片が空中に舞い上がった。

「これは…!」 スパークの目の前に、過去の自分の記憶が次々と現れる。 母の声、初めて話した言葉、失敗した日、誰かに励まされた夜――

「記憶は、ただの記録じゃない。感情と結びついて、意味を持つんだ」 「その通りじゃ」 ジャム博士がうなずく。 「記憶は、シナプスの変化として刻まれ、繰り返し使われることで“エングラム”として固定される。 それが、君たちの“物語”になるのじゃ」

スパークは、記憶ジャムの最後のひとさじを鍵に注いだ。 すると、鍵はまばゆい光を放ち、塔の天井に向かって飛び上がった。

その瞬間、ニューロシティ全体に光が走った。 ブローカ通りに声が戻り、文法市場に言葉があふれ出す。 ウェルニケ博士も、意味の迷宮から帰還し、正確な言葉を取り戻していた。

「やった…!」 スパークは空を見上げた。 「言葉が、戻ったんだ!」

数日後。 ジャム博士の研究室で、スパークとラムちゃんは新たな地図を手にしていた。

「これは…?」 「“未来の記憶”じゃ」 博士はにっこり笑った。 「言葉と記憶の旅は、まだ始まったばかりじゃよ。次は、“記憶の再構築”と“AIの脳”について学びに行くのじゃ」

スパークとラムちゃんは顔を見合わせ、うなずいた。

「よし、次の冒険へ出発だ!」

To be continued・・・

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