~加齢とともに生きる~(後編)
第六章 老化に抗う科学“健やかな最期”の設計図
実際、高齢者の多くは複数の疾患を抱えています。

骨粗鬆症、心疾患、関節障害などが重なり、日常生活に大きな制限をもたらします。医学の進歩によって命を救えるようになっても、老化そのものが進行していれば、次々と新たな疾患が現れるのです。だからこそ、「健康的な老い」には限界があるという現実を直視しつつ、老化そのものへの介入が求められています。
最新研究が示す“若返り”の可能性として2025年、大阪大学の研究チームは、細胞老化と若返りを制御する新たな分子メカニズムを発見しました。

老化した線維芽細胞や上皮細胞では、AP2A1というタンパク質の発現が増加し、細胞構造の肥大化に関与していることが明らかになりました。
驚くべきことに、このAP2A1の発現を抑制すると、老化マーカーが減少し、細胞の増殖能や運動性が回復するなど、若返り現象が観察されたのです。
また、福島県立医科大学の研究では、オキシトシンというホルモンが脳の若返りに寄与する可能性が示されました。老化マウスにオキシトシンを点鼻投与したところ、DNAの脱メチル化が促進され、ミトコンドリア機能が改善。さらに、脳だけでなく全身の炎症マーカーも低下し、老化の進行を抑える効果が確認されました。
カリフォルニアのBuck Instituteでは、酵母(yeast)→線虫(worm)→ショウジョウバエ(fruit fly)→マウス(mice)という進化的階層に沿って、老化抑制薬のスクリーニングが行われています。
線虫の老化モデルでは、アルツハイマー病患者の脳に見られるAβ様の不溶性タンパク質の蓄積が確認されており、老化と神経変性疾患の関連性が強く示唆されています。
このように、老化を遅らせることで、寿命の延伸だけでなく、認知症などの加齢性疾患の予防にもつながる可能性があるのです。
Gordon Lithgow博士は、「老化を抑えることが、病気を防ぐ最も根本的な戦略である」と語っています。
理想の老いとは何か。 それは、病院に通い続ける日々ではなく、最後の日まで孫と遊び、旅を楽しみ、ある朝、静かに目を閉じるような人生かもしれません。
その実現に向けて、科学は今、確かな一歩を踏み出しています。
第七章 科学が描く再生と予防の未来
サイモン・メロヴ博士(Simon Melov, Ph.D./Buck Institute for Research on Aging)は、老化に伴う骨の脆弱化に着目し、スクリーニング検査によって有望な化合物を特定し、現在は高齢マウスを用いた実験でその効果を検証しています。博士は、老化の分子メカニズムの解明と抗老化療法の開発を専門とする研究者で、マウスや線虫(C. elegans)などのモデル生物を用いて、骨の退化、ミトコンドリア機能の低下、遺伝子発現の変化などを解析しています。
特に博士が注目するのは、転倒による骨折が高齢者の生活の質を大きく損なうという現実です。骨折をきっかけに寝たきりとなり、生きる意欲を失ってしまうケースも少なくありません。こうした課題に対し、メロヴ博士のチームは高齢マウスを160日、649日、739日、871日と経時的にCTスキャンで観察し、骨の退化を遅らせる化合物の効果を高解像度で解析しました。その結果、骨密度の維持や骨構造の劣化抑制に有効な候補物質が明らかになり、治療薬開発の可能性が大きく広がっています。
さらに、GEグローバルリサーチセンターでは、ヒト組織をかつてない高解像度で可視化する技術が開発されました。

複数のタンパク質をそれぞれ異なる色で染め分け、組織内での分布や量を精密にマッピングすることで、薬剤がどの部位に作用したかを詳細に解析できるようになっています。これは、薬の効果を細胞レベルで“見える化”する革新的な技術です。
老化のもう一つの鍵となるのが、老化細胞(senescent cells)の存在です。これらの細胞は分裂を停止し、体内に蓄積していくことで、慢性炎症や組織の機能低下、虚弱体質の進行などを引き起こします。さらに、周囲の正常な細胞にも悪影響を及ぼし、老化の連鎖を加速させてしまうのです。
こうした老化細胞の蓄積が、加齢に伴う疾患や機能低下の引き金となっている可能性があることから、近年ではこの細胞を標的とした新しい治療法が注目されています。その代表が、セノリティクス(senolytics)と呼ばれる薬剤群です。
メイヨー・クリニックのジェームス・L・カークランド博士によれば、セノリティクスは老化細胞だけを選択的に除去することができ、健康寿命の延伸に大きく貢献する可能性があるとされています。実験では、歩行が困難になった高齢マウスにセノリティクスを1回投与したところ、運動量が正常レベルに回復し、その効果は7か月間持続したと報告されています。さらに、循環器系の持久力が改善され、骨粗鬆症や虚弱体質の進行も抑制されました。
2025年のレビュー論文では、セノリティクスが骨代謝を調整し、骨粗鬆症の予防にも有効である可能性が示されています。自然由来の化合物からキナーゼ阻害剤、Bcl-2ファミリー阻害剤まで、さまざまなタイプのセノリティクスが開発されており、臨床試験も進行中です。ただし、ヒトにおける骨代謝への影響はまだ限定的であり、今後の研究が待たれています。
老化は、もはや“避けられない運命”ではなくなりつつあります。細胞レベルでの可視化技術、老化細胞の除去、骨の再生促進、そして老化の分子メカニズムの解明——これらの進展が、健康で自立した老後を実現するための道を切り拓いているのです。

理想の老いとは、病院に通い詰める日々ではなく、最後の日まで自分らしく生きること。科学は今、その理想に手を伸ばし始めています。
かつて避けることのできない生命現象とされていた「老化」——しかし今、世界中の研究者たちがその根本的な仕組みに挑み、薬によって老化を遅らせ、健康寿命を延ばすことを目指す歴史的な瞬間を迎えています。
マウスなどの動物実験で成果が出始め、人間にも同様の効果があるかどうかを確かめる段階に入ってきているのです。
第八章 老化を治療する“メトホルミンが導く新たな可能性”

老化の原因を一つずつ取り除くことで、加齢に伴う病気とも決別できる可能性があります。つまり、老化はもはやコントロール不可能な現象ではなく、治療の対象となり得るという考え方が広がっているのです。
この流れの中で注目されているのが、糖尿病治療薬として長年使われてきた「メトホルミン」です。アルバート・アインシュタイン医科大学のニル・バルジライ博士は、メトホルミンが人間の老化を遅らせる可能性を持つと語っています。動物実験ではすでに老化の進行を抑える効果が確認されており、人間への応用に向けた期待が高まっています。
実際に、イギリスで行われた大規模な観察研究では、糖尿病患者7万8千人にメトホルミンを投与し、同数の糖尿病でない人々と比較したところ、メトホルミンを服用した患者は肥満や病気のリスクが高かったにもかかわらず、死亡率が17%も低かったという結果が得られました。この結果は、メトホルミンが単なる糖尿病治療薬にとどまらず、老化そのものに作用している可能性を示唆しています。

さらに、70歳から80歳までの高齢者にメトホルミンを投与し、病気の進行を抑えるかどうかを観察する研究も行われています。対象となったのは、糖尿病や軽度認知障害(MCI)、アルツハイマー病、がんなどの加齢性疾患を抱える人々であり、メトホルミンによってこれらの病気の進行や死亡を防げるかが検証されています。
2025年には、カリフォルニア大学やハーバード大学を中心とした研究グループが、メトホルミンが老化に関わる複数の生物学的プロセスに作用し、寿命を延ばす可能性があることを報告しました[1]。特に、米国の大規模コホート研究「女性の健康イニシアチブ(WHI)」のデータ解析では、2型糖尿病の閉経後女性において、メトホルミンを使用していたグループの死亡リスクが30%も低下していたという結果が得られています。
また、ハーバード大学のデイビッド・シンクレア教授は、老化を「治療可能な病気」と捉える新たな理論を提唱し、メトホルミンがDNAの読み取り能力を回復させることで細胞の若返りを促す可能性があると述べています。この理論は、老化の根本原因をDNAの損傷ではなく、エピジェネティックな情報の読み取り能力の低下と捉えるものであり、老化研究におけるパラダイムシフトを引き起こしています。
さらに、最新の研究では、メトホルミンを服用することで生体年齢が平均2.77歳若返る可能性があることも報告されています[2]。この若返り効果は、細胞のエネルギー代謝を担うミトコンドリアの機能改善、抗炎症作用、酸化ストレスの軽減など、複数のメカニズムによって支えられています。
バルジライ博士は、メトホルミンが「究極の薬」だとは考えていません。重要なのは、老化を薬で抑えるという考え方をFDA(米食品医薬品局)に認めてもらうことだと語っています。メトホルミンは60年以上にわたって使われてきた安全な薬であり、ジェネリック医薬品として安価に提供されています。だからこそ、大規模な試験を通じて多くの人に処方し、FDAが納得するだけのデータを集めることが可能なのです。
もしFDAが「老化を病気」と認めれば、医療のあり方は大きく変わるでしょう。バイオテクノロジーや製薬業界が次々と老化の分野に参入し、より効果的な医薬品の開発が加速するからです。老化に対する治療法が確立されれば、これまで避けられなかった加齢性疾患の多くが予防・治療可能となり、人類の健康と寿命は新たな段階へと進むことになるでしょう。
第九章 長寿社会の光と影
人間の生活の質は、統計的に見ると75歳を境に低下していく傾向があります。だからこそ、私は75歳以降は医療に頼らず、自然の流れに身を委ねたいと考えています。
近い将来、テクノロジーが進歩し、高齢者が健康なまま最期を迎えられる時代が来ると信じたい気持ちはありますが、現実はそう簡単ではありません。
そのため、私は75歳で治療をやめる決意をしています。
延命のための処置は受けず、病院を転々とすることも望みません。数カ月命を延ばすことよりも、限られた時間を「生きること」に注ぎたいからです。
人には必ず死が訪れます。
では、私たちは何のために生き、何に幸せを感じるのでしょうか。

私は、長生きすれば人生が充実するとは限らないと考えています。
本を読み、クラシック音楽を聴き、家族にいたずら電話をかける。そして、毎日デイサービスに通い、90歳以上の女性たちと長話を楽しむ。そんな日々こそ、私にとっての豊かな人生です。
専門家たちは、がんや認知症を治せる日が来ると長年言い続けてきました。しかし、数十年が経っても完治薬は登場していません。予防薬の研究は進んでいますが、それが生きているうちに完成する保証はありません。
だからこそ、人生は現実的に設計すべきだと私は思っています。
現時点では、がんや認知症の完治薬は存在しません。もしそれらを治し、自立したまま寿命を延ばすことができれば理想的です。
しかし私は、未来の薬に期待するよりも、今ある人生をしっかりと生きる道を選びます。
仕事柄、多くの高齢者と接してきましたが、「十分生きた」と語った人には、まだ出会ったことがありません。
もし永遠の若さが本当に手に入るなら、それは素晴らしいことです。薬を飲むだけで誰でも若々しくなり、100歳を過ぎても健康で生き生きと暮らせる。そんな未来が訪れるかもしれません。
しかし、現実には地球上の人口はすでに70億人を超えており、長寿が当たり前になれば、社会は冷静さを失う可能性もあります。なぜなら、死は人間にとって最大のテーマだからです。
長寿に関する研究は、人類の運命を変えようと何千年も挑戦を続けてきました。
かつては成長ホルモンや抗酸化サプリ、アンチエイジングなどが注目され、健康ブームが巻き起こりました。
その一方で、高齢者の数は増加し、人口構成は大きく変化しています。すでに60歳以上の人口が15歳未満を上回り、高齢者を支える労働力が不足する時代が近づいています。

これはまさに、未曽有の社会的危機です。資源が不足すれば、健康も脅かされます。医療費の増加によって生活に困窮する人も増えるでしょう。
実際、2025年のWHO神戸センターの研究では、日本の高齢者世帯の多くが医療費負担による継続的な経済的困難に直面していることが明らかになっています。
老化に伴う慢性疾患の数が増えていることが、その背景にあります。だからこそ、老化の治療法が確立されれば、こうした問題の多くが解決に向かう可能性があります。
いつまでも元気な祖父母が孫の世話をし、定年が延びて生産力が向上する。
数百年生きることを阻む絶対的な要因は、もはや存在しないのかもしれません。老化や病気が減る世界は、現実になろうとしています。

老化という一点に対処することで、糖尿病、アルツハイマー病、脳卒中といった加齢性疾患を一気に防ぐことが可能になるのです。根本の病気を取り除けば、これらの疾患の進行を遅らせることもできます。
たとえば、Ⅱ型糖尿病の患者が減るだけでも、医療財政への負担は大きく軽減されるでしょう。病気全体で同じことが起これば、経済的にも大きな効果が期待できます。
すでに政府主導の医療プログラムには限界が見え始めており、国民の老化スピードが遅くなることは、巨大な経済利益を生むことにつながるのです。
編集後記
病気の根本的な原因は老化にある——そんな新しい考え方から始まった研究は、世界中の科学者たちによって長い年月をかけて検証され、その正しさが少しずつ明らかになってきました。老化に起因する問題は、筋力の低下やめまい、転倒、認知症、視力の衰えなど、実にさまざまです。もしそれらを一つの治療法で予防・改善できるとしたら、それは病気を治す以上の意味を持つのではないでしょうか・・・
この研究の進展は、すべての人に影響を与える可能性を秘めた、画期的な医療の転換点です。実現すれば、世界は確実に変わります。人間の健康寿命は、これからの10年で大きく変わっていくことでしょう。未来の医師たちは、アルツハイマー病やパーキンソン病の存在すら知らない時代に生きているかもしれません。
けれども、ふと立ち止まって考えてみたくなります。日本の平均寿命は現在84歳ですが、もしそれが95歳に延びたとして、私たちは本当に幸せになれるのでしょうか。
私にとって大切なのは、人生を思いきり生きることです。
そして、家族や社会に何かしらのかたちで貢献できること。それこそが、人生の価値だと感じています。
老化に挑む科学の歩みは、私たちに新たな選択肢を与えてくれます。けれども、どんな未来が訪れたとしても、「どう生きるか」という問いに答えを出すのは、やはり私たち自身なのだと思います。
