塩井純一
「少年が来る」
ハン・ガン著、井出俊作訳、クオン、2016年刊(原著「소년이 온다」2014年刊)
昨年2024年のノーベル文学賞に輝いた韓国人作家ハン・ガンの代表作です。スウェーデン・アカデミーは「過去のトラウマに立ち向かい、人間の命のもろさを浮き彫りにする強烈な詩的散文」の作家だとハン氏を紹介し、「肉体と精神、生ける者と死者の繋がりに対する独特な認識を持っており、詩的かつ実験的な文体で現代散文における革新家となった」と説明しています(新聞記事より)。スウェーデン・アカデミーの格調の高さ、さすがです。これ以上付け加えるのは蛇足の感もあるのですが、あえて私なりのチャレンジを試みます。
著者は9歳の時、光州からソウルに引っ越すのですが、その数カ月後に光州事件(1980年5月に起きた民主化運動弾圧事件、軍事政権下で民衆の虐殺は闇に葬られた)が勃発、その関連で官憲がソウルの自宅まで踏み込んできたのを体験・目撃しており、その状況・事情を説明したがらない周囲の大人の目をかいくぐって事件に対する関心・興味を募らせていったようです。例えば父が隠し持っていた事件の写真集をこっそり盗み見し、「銃剣で深くえぐられてつぶれた女の子に顔」に衝撃を受けます。その後、文学者としてキャリアを重ねてゆく中で、この事件を取り上げずにはいられなかったのではないかと想像しました。エピローグでの語りによると、著者が光州で暮らした家のすぐ後に引っ越してきた家族が数カ月後の光州事件に巻き込まれ、3人兄弟の末っ子、15歳の少年が殺されたのを知り、この少年トンホを軸とした物語を着想したようです。事件の30年後、本書を出版するにあたり、生き残ったトンホの次兄を訪ねるのですが「許可ですか?もちろん許可します。その代わりしっかり書いていただかなくてはなりませんーーー。誰も私の弟をこれ以上冒涜できないように書いてください」と言われます。この次兄の想いに応えただけでなく、それを超えて、この事件の物言わぬ犠牲者すべての「人間の尊厳」を描いたのではないかと感じました。
以前の読書会で取り上げたことのある藤原ていの「流れる星は生きている」とスベトラーナ・アクシエービッチの「戦争は女の顔をしていない」の2作品と本書との比較が、今回の読書会で話題になりました。「流れる星―――」は終戦時逃避行の藤原てい自身の過酷な体験記であり、「戦争は女―――」は第2次世界大戦時のソ連軍女性兵士を訪ね廻って得た数多のインタビューを基に戦争の理不尽を提示していました。私は事実を重視する科学者としての性癖で、どちらかというとドキュメンタリー、ノンフィクションに惹かれ、実際この2作品を高く評価しているのですが、この度の本作品で、人間の心、苦しみ、悲しみを抉るように表出する「小説」(フィクションの文学)の力にも圧倒されました。その著者であるハン・ガンの文学者としての想像力・創造力に敬服です。
「MORAL 善悪と道徳の人類史」
ハンノ・ザウアー著、長谷川圭訳、講談社、2024年刊(原著、MORAL Die Erfindung von Gut und Bose, 2023年刊)
【感想文1弾】
新進若手の『哲学者』によって書かれた人類史というのが特異であり、500万年前から正に現在に至るまでをもカバーする壮大な『人類精神史』です。著者いわく「私が語るのは、人類の価値観、規範、制度、そして慣行の歴史だ。モラルは人の頭ではなく、町や堤防に、法律や習慣に、祭りや争いのなかにある」という立ち位置であり、古生物学、比較形態学、分子遺伝学、生化学、統計学、心理学、認知科学等の科学的成果、実証を総動員した考察を展開します。博覧強記なのか、はたまたAIを駆使したのかと思わせるような、豊富な内容です。殊に第1章「五00万年」、第2章「五0万年」、第3章「五万年」までは考古学的な学術成果、物証を基にした『生物進化』に則った『精神進化』『脳機能進化』を語るのですが、分子生物学者・脳科学者の私にとっては受け入れやすい一方、哲学者ならではの思考展開が斬新でした。一部引用すると「人間の道徳の基礎となった協調の形態は、個人の利益を犠牲にしてでも、全員の利となる公益を優先する点が特殊―――なぜ協調したのか?気候と地形が変化したからだ、―――チンパンジーやボノボは中央アフリカ・コンゴ川周辺の密林で生活を続けた―――一方、私たち人類のほうは(草原に侵出し)―――危険な猛獣の脅威にさらされていたので、弱みを補うために、互いに守りあう必要に迫られていた。集団をより大きく、団結をより蜜にすることで、強さと安心を得たのだ。最も知性の高いサルを五00万年の期間、広々とした草地で暮らすよう強制すると、私たち人間に進化するのである」。因みに最新の『生活時間モデル』によると五00万年前頃の初期ヒト族集団の最大定員数は20人以下だそうです。他方現存の霊長類の大脳新皮質の大きさと、集団のメンバーの最大数との相関から、現人類ホモサピエンスの集団の自然な大きさは150人だと言われています(ダンバー数)。更に著者は「先史時代の集団では、集団同士の出会いのほとんどが暴力に発展したと考えられるが、これは意外なことではない。進化論的には、縄張り争いや資源をめぐる衝突が起こるのは理にかなっている。集団間の争いこそが、協調的な関係を選択する圧力を高めるからだ。」「私たちの祖先は、集団内部では家族思いの平和主義者で、集団の外に向けては殺しも略奪もいとわないギャングだった。」とまで主張しています。つい最近のシリアやコンゴ、ガザでの集団虐殺やウクライナ戦争を考えると、五00万年にわたる人類史の上で『精神』は全く進歩しなかったのではないかと愕然とさせられます。
「ニワトリが新しいニワトリをつくるために卵を産むのではない。卵が新しい卵を産むために、ニワトリをつくるのだ。」「そもそも進化するのは『私たち』ではないのである。私たち人間は、自己複製する遺伝子を厳しい自然から守るために、三五億年の突然変異と選択をへて改善されてきた精巧なロボットに過ぎない。」とまで言う過激な記述・表現もあります。分子生物学者の私としては、なるほどと同意・感心もする一方、チョット誤解を生む極端な単純化とも捉えています。更に興味ある事実や、特異な議論が続くのですが、紹介しきれません。総じてモラルの歴史から現代のモラル危機を診断するのには成功していると言えそうです。「終わりに」で著者は「ここに描かれているのは悲観的な進歩の話だ」とし「長かった物語はここで終わる。この話が終わった今、それでも私たちは互いを愛することができるだろうか?この不和と憎しみの壮大なお祭り騒ぎには、いつか終わりが来るのかもしれないーーーもしかすると、理性によって解き放たれた―――共同体の祝祭が始まるのかもしれない。」と結んでいるのですが、その具体的、説得的なシナリオが示されている訳ではありません。
「MORAL 善悪と道徳の人類史」
ハンノ・ザウアー著、長谷川圭訳、講談社、2024年刊(原著、MORAL Die Erfindung von Gut und Bose, 2023年刊)
前に書いた感想文では全7章のうち、第1章 「500万年」、第2章 「50万年」、第3章 「5万年」位までの生物学的進化を主な話題にして終わってしまったのですが、本書はその後「5000年」「500年」「50年」「5年」と続き、時間スケールは密になっていき、累積的・蓄積的な文化継承についてが語られています。興味深い話題・議論・考察に溢れているのですが、各章の紹介は諦め、全体の俯瞰を試みます。
余りに多岐・多彩な知識・知見、それらに基づく議論、哲学的な考察に絡めとられて、著者ハンノ・ザウアー自身の見解を汲み取るのに困難を感じたのですが、著者は意図的に我々読者にレビューする素材を幅広く、豊富に提供して、我々読者自身に考えてもらいたかったのかもしれません。実際最後の締めっ括りは「長かった物語はここで終わる。この話が終わった今、それでも私たちは互いを愛することができるだろうか?」問うています。それに対して、「道徳的には全く進歩していない」と悲観的に結論する読者もいそうです。対して私自身は「紆余曲折を繰り返しつつも、大きな流れでは、我等人間の道徳は進化・進歩しており、これからも進歩・前進していく」と希望的に捉えています。実際、協力関係に重要・必須な相手への思いやりは、太古の身近な血縁関係から始まり、その後、部族構成員、更に自国民へと拡がってきているのです(道徳の輪を広げてきた)。私の提唱する「個人脳」から「集団脳」、更に「地球脳」への進化に対応します、ただ人類全体の平和(戦争のない世界)は宇宙人の侵略に対峙して、地球上全人類の知力を統合しなければならないというような事態にならない限り無理なのかもしれません。