心に残る今月の一冊

心に残る今月の一冊

塩井純一

「日本語で書くということ」 水村美苗著、ちくま文庫、2022年

『日本語で書くということへの希望』、II『日本近代文学について』、III『アレゴリーとしての文学』の3部構成。最後の『文庫版あとがき』で「私の頭の世界はいわゆる『象牙の塔』の世界に閉じこめられ、今振り返れば、まことに愚でもあれば滑稽でもあるが、あの世界の極端な狭さを知らなかった」とその自己遍歴を告白しており、その「自分の歩んできた道を最終的にはなんとか肯定しようと」しての弁解本のように受け取れました。そこに至り、私にとってIII部が全く面白くなく、II部も訴えること少なく、最初のI部『日本語で書くということへの希望』に読ませるものがあったのが了解・納得できました。I部は7つのエッセイで成り立っているのですが、そのうちの2つが特に印象に残りました。そのひとつ「インドの『貧しさ』と日本の『豊かさ』」ではインド帰りの飛行機内や空港で気づいた日イの貧富差から、言葉や文学の貧しさ、富かさへと考察・思索を拡げてゆきます。二つ目の「『もう遅すぎますか?』――初めての韓国旅行」は若い時の何回かのパリ旅行での切ない体験・回想を含めての文化論・文明論的考察なのですが、今や世界語となりつつある英語による「英語文学」と本来の英語文化圏の古典を引き継ぐ「英文学」を区別し、「英語文学」の将来的な優勢化を認めつつ、各言語での文学を残したい、残そうという期待・意志を感じました。言語はそれぞれの文化の基盤。日本語が失われれば日本文化も失なわれてしまうことへの焦燥感を共有します。

「利己的な遺伝子 利他的な脳」

ドナルド・W・パフ著、福岡伸一訳、集英社、2024年刊(原著、2015年刊)

原著のタイトル「The Altrustic Brain」は、本の中身を表した「要約型」なのですが、この翻訳本「利己的な遺伝子 利他的な脳」は「キャチコピー型」タイトルと言えます。「利己的な遺伝子」についてはほんの3ページ足らずで説明しているに過ぎないので、物足りない読者、或いは、「羊頭狗肉」とがっかりする読者もいそうです。本著でも引用しているリチャード・ドーキンス著の「利己的な遺伝子」を読まれることをお薦めします。私自身は日本語版タイトルに惹かれて、店頭で即買いしたのですが、読みがいはありました。著者は「利他的脳理論」を提唱しており、「科学的な専門知識のない読者に向けて、神経科学分野の新しい考え方を説明した」と謳っています。私自身は単細胞生物であるバクテリアの行動から出発して人間の脳研究に辿り着いた経緯もあり、利他的行動を含めた高度な思考・行動を脳科学的に理解するのはまだまだ先と思っていたので、著者の大胆・野心的な試みに驚き、また感銘も受けています。

私は人類史の上で、約7万年前の言語獲得により「個人脳」から「集団脳」が形成され(コミュニケーション革命と名付けた)、他の生物を圧倒していったと考えていたのですが、それより前の段階で、人間は利他的思考・行動により協力関係を育み、集団として行動し始めていたらしいことを本書で知らされました。著者はこの利他的思考・行動について母親が子供を養育するうえで獲得した脳回路を転用し、更に進化させたのではないかと推測し、両者で活性化される脳回路や特定ホルモンの脳内分泌等の科学的データを解説しています。そこから更に発展させて、経済や政治を女性に任せることで、現状世界の貧困・不平等・戦争を避けれるのではないかとまで大胆に提唱しています。

利他的行動との関連で「汚職」「ギャング」「戦争」「大量虐殺」等の「非道徳的」「反社会的」行動についての議論・考察が、私の興味を惹きました。これらの行動も「利他脳」に発している点や、それでも衝動的な思考から「スローな思考」への切り替えによって、克服できると希望的展望を展開しています。大筋、私も同意するのですが、これらの「非道徳的」「反社会的」行動にも進化的なメリット・必然性があったのではないかと推測します。例えば、数千年前の文明化以前の数万年、或いは数十万年にわたり、部族間の争い・殺戮で身体的・知的能力に秀でた部族が、劣弱部族を滅ぼし、そういう能力を担う遺伝子を残してきたのではないでしょうか。4~5万年前のネアンデルタール人やデニソワ人の絶滅も、ノア・ハラリは「サピエンス全史」でホモサピエンスによる史上初「民族浄化作戦」だったかもしれない考察しています。言い換えると我々は利他脳に起因すると思われる「非道徳的」「反社会的」行動も受け入れることにより、人類種の中の劣弱遺伝子を排除し、進化してきたのです。これを克服するのは人類史的な大事業でしょう。今回の新コロナによるパンデミックが全人類な危機だったにもかかわらず、全地球人が結束して対処できなかった現実を考えると、宇宙人の襲来くらいを期待しなければならないのかもしれません。そこで初めて地球人同士で争っている場合ではないことをおもい知らされるのかもしれません。

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