塩井純一
「私の身体を生きる」島本理生他、文藝春秋、2024年
17名の女性作家による自分自身の身体を題材とした評論集とでも呼べましょうか。一番手の島本理生は自らのファションや装飾品の関心の変遷の話からルッキズムへと展開します。「私はいつの頃からか容姿で男性を選ぶようになった。」と書いており、ルッキズムで対人関係、ひいては人生が左右される、おかしさ・不条理さを悟らされるのですが、それがかなり一般的に見られる現実であり、人間の罪深さ・悲劇なのでしょう。オトコである私も、幼少期から綺麗なお姉さんには惹かれていましたし、思春期に入ってからは、容姿で女性を選んでいたと思います。いやそれ以上に、「ブス」女性を意識的に避けてきたと言えます。何たる恥ずべきことか。カミさんを内面ではなく、外見で選んだために50数年後の現在の変わり果てた姿に、自分の人生を返してくれと叫びたいような人生幕引きの悲しみがあるのですが、内面で選んでも失敗の可能性は同じ位あり得た気もし、もしそうなら若い時に夢中になれただけでも良しとしようかです。「人は誤った理由で結婚し、正しい理由で離婚する」と言う金言があるくらいで、こうやって人類は束の間の生きる喜びを得、子孫を残してきたことを考えると、なかなかに根の深い問題だと考え込まされます。続いては村田紗耶香(「コンビニ人間」の作者)は自慰を、藤野香織は妊娠を、西加奈子は性被害を、鈴木涼美は売春を語ります。余りの赤裸々告白と考察に、衝撃があります。オトコとしての自分の性的体験(主にセックス以前)や性的関心・思考も考えさせられざるを得ません。性は本能であり、理知的思考・行動ではないので、このような理屈的な考察に馴染まない感もあります。道徳的規範とは相容れないし、むしろ背徳的・淫靡なところに喜びがあったりするので、個々人が胸の中にしまっておいても良いのではないかと考察する一方、その秘匿・秘隠性が性犯罪を増長させているだろうことも確かであり、混迷・混乱を深めます。
秋の夜長のもう一冊
「悪タレ極道 いのちやりなおし」中島哲夫、講談社、2001年
極貧とか、複雑な出生、或いは過酷な生育環境で育ったという訳でもないのに、幼い頃からの「悪タレ」で、その後自ら好んで極道へと進んでいったことは、本著者が天性的な、救いようのない本物の悪党ではないかと理解しました。その彼が、改心してキリスト教徒になっただけでなく、牧師にまでなるのは、驚きでしたし、痛快さもあるのですが、理解しがたいものがありました。二度の結婚を経た37歳でもなお、25歳の韓国女性に恋をする、いえ恋に狂うのはたいした激情家と感心しました。恋に狂うのが許されるのは10代、20代の若者の特権だと思っていますから。著者はプロポーズを受け入れてもらうために彼女と一緒に日曜日は教会に通い始めるも、イエスを本心から信じるようになるまでには何段階もの困難・紆余曲折があり、妻となった彼女を苦しめるのですが、「神」を信じない私には、こんな悪党の変容・変身が理解を超えます。他方、このろくでなしで気性の激しい悪党に対峙して「罪びと」こそを招き、救おうとする牧師の精神の清さと言うか、強靭さに感心すると共に、キリスト教の教義がそんな牧師を育てうるのかの驚きがあります。でも聖書を読み解くだけで、解明できるものなのかは脳科学者として疑ってもいるところです。