塩井純一
「落合陽一 34歳、『老い』と向きあう」落合陽一著、中央法規、2021年
「はじめに」の章で著者は「人間が生まれ、老いて、死んでいくとは、一体どういうことなのか。医学者でも生物学者でも哲学者でもない、テクノロジーの専門家ならではの視座を示せたら」と始めます。なかなかにユニーク、かつ挑戦的です。
「序章」は養老孟伺との対談。医学者の養老の主張は、脳科学者・生物学者の私にはほとんど違和感がないのですが、養老と落合の議論はほとんどかみ合っていないの感があります。例えば「一人称の死」は自分自身の死、「二人称の死」は自分と親しい人の死、「三人称の死」は赤の他人の死とすると、医者は「二人称の死」から「三人称の死」へずらすことでトラウマを避けると養老は言います。更に認知症患者を世話するうえで「二人称的には、ある程度、別人として見ないといけない。
客観視するしかない」と突き放しますが、対して落合はデジタル化によって、人間がより「二人称」的な関係づくりに注力できる、「食事から排泄までロボットに手伝ってもらう」ことで介護者はより二人称ケアに集中できると楽観的です。
対話の後半で養老は、「人は早産で生まれてくる。(そしてそれは人類進化の過程で)頭が大きくなり、骨盤の構造上、生れ出ることが難しくなった」からだと説明するのですが、これは脳の進化上極めて重要な指摘だと受け止めます。
ここで、脳の更なる巨大化を放棄したが為に、数百万年前に絶滅したのが猿人や原人なのかもしれません。他方、未熟児として出産することで、出生後の脳の巨大化を促し、可能にしたのが我らホモサピエンスにつながる旧人、新人なのでしょう。出産直後は手足を始めとする諸器官は形態的にはすでに整っていても、強度的には不十分なのですが、数カ月で歩いたり、物を掴んだり、投げたりできるようになります。
それに対し脳の成長はその容積に見るマクロ構造の成長だけでなく、神経細胞間のネットワーク形成といったミクロな機能的成長が決定的に重要で、そのプロセスは生後数年は続きます。この出生前の成長(妊娠期間の9カ月)と出生後の成長(数年)には質的な違いがあります。前者は体内の閉鎖空間内での比較的自律的成長なのに対し、後者は体外の環境の影響下の他律的成長なのです。脳内の神経細胞ネットワーク形成には、母親のような、直近の養育者の影響が格段に大きいのですが、その情報伝達は厳格ではなく、かなりのゆらぎ、あいまいさがあり、更に親以外からの多様な入力もあり、その時期の言語獲得にしても、人間関係を含む外界認識にしても多様な(予測不能な)脳発達、ミクロレベルでいうと神経細胞間ネットワークのダイナミックな構築、を促します。この段階で既に個性をもつ脳活動を始めているのですが、それに端を発する、その後の知的成長を考えると、医学者養老の「終わりの迎え方には一般論はない」「人生の問題には一般論がない」の主張にも脳科学的な合点がいきます。「終わりの迎え方」とか「人生の問題」は知的活動、即ち脳活動が発しているのですから。
第1章「発展するテクノロジーと『老い』と第2章「ここまで進展した『介護テクノロジー』のいま」はテクノロジーによる身体補完の実例を挙げており、「老い」の身体的機能劣化だけでなく、脳機能の劣化まで補完し、治してくれそうな希望を与えます。更に第3章「少子高齢化社会の日本に起こる『第4次産業革命』」、第4章「人にとって優しいテクノロジーとは?」、第5章「誰もがクリエイションできる未来へ」は概してバラ色の未来像を描くのですが、急激なデジタル化から取り残されつつある私のような年寄りから見ると、楽観主義の能天気な予想にも思えてしまいます。私が認知症患者の介護に関心をもった10年ほど前にすでにデジタルテクノロジーが介護を革命的に変えるという予想はあり、本書でその方向への進展を確認した感があります。他方、当時すでに、身体障害者の身体の補完器具・装置がその使用により健常人の身体能力を超える状況もあり、その延長として健常人の身体能力の拡張の是非が問われていました。SFや映画の世界でみるような人間のサイボーグ化が現実的になり、それが社会にどんなインパクトを与えるのかの危惧です。
現在では知的能力さえ装着装置で増強できるようになり、更なる小型化により、体内埋め込み型の装置まで実現可能になりつつあり、このような人間本来の能力を超えるような「知的サイボーグ人間」のもたらす社会的影響の危惧は、更に深刻化しているように思います。勿論個々人内の人間的・精神的危機も招くでしょう。
年老いて、今や守旧派なのかもしれない私にとっては自然とか生き物は絶対的な”given”であり、テクノロジーはそれを変容・調整し利用しつつも、時に破壊する危険もあるものと捉えているのに対し、落合はテクノロジーにより、それを融合したような全く新しいテクノ自然、テクノ生物を想定しているのかもしれません。だとすると、人類学者ユヴァル・ノア・ハラリが予言した「ホモ・デウス」の出現であり、彼らは神の如く全く新たな自然、新たな生き物を創造しようとしているかのように思えます。本書でも取り上げている、微細画像を再構築した「デジタルネイチャー」はその走りなのかもしれません。恐るべし、新人類。