~生体工学(bionics)が認知症ケアを科学する~
21世紀は生体工学が世界の形を変えるといわれています。
生体工学(bionics)とは、自然に隠された優れた生物の秘密や謎の機能を科学的方法(scientific method)で人工的に再現(artificial reproduction)することで、そのメカニズムを解明し、そこから得られた新しい知見を応用しようというものです。
私達を地球規模で考えれば自然の摂理という大きなうねりの中にいるわけです。
そこで、今回は生物史を紐どきながら、認知症の対応について生体工学の視点から考えてみました。
まず、その前に生命の進化について見てみましょう。
生命の進化には、その世代(generation)の環境や状況に最も適応できずに立ち後れた“落ちこぼれ”の生物ほど、次世代を生き抜くための新機能を獲得して、複雑化し高度化してきたという摩訶不思議な事実があるのをご存知でしたか!
1859年、ダーウィンの著書、生物の進化は自然淘汰によるものとした、生物進化論「種の起原」で、脊椎動物の進化を手繰ってみると、まず、バクテリアが海に誕生して魚類へと進化し、そして、魚類から両生類へと進化していったわけです。
ある学説によれば、その進化の陰にこんな事があったそうです。
4億年前に海底深くにあった凍結層が地殻変動によりメタンを噴出し海水を酸性化した結果、酸素欠乏状態となった海にいた一部の魚が川を登ったというのです。
ところが、魚が海水から淡水に移るためには、大きな浸透圧の格差に適応しなくてはならなかったのです。
水には浸透圧と言う特徴があって、半透膜の細胞膜などを通して薄い濃度のものから濃い濃度のものへ移動する性質があります。
海水では濃いNaCl(塩化ナトリウム)濃度のために、体内にNa+(ナトリウムイオン)が流入して浸透圧によって水が奪われて脱水状態に陥ってしまうのです。
一方、淡水ではその逆でNa+が体外に流出し、浸透圧によって水が体内に蓄積してしまい、生物に必要な濃度(0.9%)を失ってしまうということです。
そこで、腎臓で希釈尿を排泄して体内に貯まっている水を体外に排泄する新機能を獲得して淡水でも生息できるようになったのです。
また、上陸するためにエラ呼吸(皮膚呼吸)と肺の両方から酸素を取り込む複雑で高度な機能も獲得して、淡水から上陸したのが両生類なのです。
その後、同様に高度な機能を獲得しながら水辺から陸地に爬虫類が誕生していきました。
全ては、その世代の環境に適応できなくなった種が、新しい環境に適応しようとして進化していった結果なのです。
つまり、劣悪な自然環境に適応できない生物種の一部がヘビやトカゲに、別の一部がカメやワニとなったわけです。
そして、肉食系の恐竜は哺乳類や鳥類へと進化していったのです。
その進化の過程は、脳の発達からも見えてきます。
その脳とは、第三の目と言われる“松果体”です。
松果体は大脳半球の間に位置する間脳の一部で内分泌器なのですが、生体工学的に見てみると、脊推動物の中には、松果体が目の光受容器に似ている動物、たとえば(ニワトリ)などがいることから、松果体は進化の過程(系統進化)において細胞分化しながら、神経分化能→
光受容態→内分泌化能へと進化していったと奈良女子大学の荒木正介博士は言います。
また、松果体、目、下垂体は同じ間脳から発生し類似性もあります。
もちろん、網膜の細胞と構造が似ているだけではなく細胞を培養してみるとレンズ、色素上皮、視細胞、ニューロンへの細胞分化能力や磁力感知機能があることも明らかになっています。
この優れた機能を活用して人工的に再現すれば、ヒトの松果体を利用して酵素やホルモン(メラトニン)、ニューロン受容体に連鎖反応を起こすことも可能になると考えられています。
「睡眠ホルモン」と呼ばれるメラトニンが人工的にコントロールすることが出来れば、呼吸や血圧を安定に保ち、副交感神経を優位にして自律神経症状を緩和させられることが可能になるので、認知症の人などの行動・心理症状が緩和されて落ち着いた生活が送れるようになることでしょう。
しかし、ヒトの松果体は進化の過程で脳の奥、左右の視床に挟まれた視床後部へ入り込んでしまったため、ニワトリの松果体のように生物時計の機能を持ち、外界の光情報をもとにして体内時計と実際の時刻のズレを調整しているわけではありません。
ヒトの場合は、目から入った光のシグナルを視床下部の一部である視交叉上核が生物時計の機能を持ち体内時計の仕事をします。ですから、ヒトの松果体は、光受容や生物時計としての機能は無くなりメラトニンを出す内分泌器となって、視交叉上核によってコントロールされているわけです。
しかし、最近の研究でメラトニンが免疫系とも密接に結びついていることも分かってきたので、メラトニンを人工的に活用して、癌細胞を攻撃するNK細胞の数を増やしたり、ウイルスを殺傷する食細胞の破壊力を高めたり、不眠や老化防止、そして認知症の進行を遅らせるなどの生体工学的研究が進められています。
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さて、話を戻しますが、自然環境の激変から多くの生物種が絶滅し、その際に新環境に適応する機能を奇跡的に生み出した新種が生き延びたということは理解して頂けたと思います。
では、この環境変化をもたらす一つが、実は、地球環境それ自体の激変だったということなのです。
いっけん安定的に見える地球環境ですが、マントルの活動の変化や火山の爆発などにより、高熱化、氷結、酸素濃度の著しい変化、生物史上度々災難を生命にもたらしていたのです。
もしも、生物が環境に適応していれば、変化や進化に応じる必要は無かったはずです。
ダーウィンの進化論には、もう一つが淘汰圧(selection pressure)という考え方があります。
淘汰圧とは、自然淘汰(natural selection)による進化を促す方向にかかる自然の圧力のことで、例えば、虫を食べる鳥は、虫にとっての淘汰圧と言えるのです。
簡単に言えば、虫の保護色や擬態は、全て食べられないように進化した結果ということなのです。
また、孔雀などは、交尾の機会が少ないため異性をめぐる競争の結果、雄が著しく色彩や形態に異なった淘汰圧が加わった結果(性淘汰)ということです。
現にヒトも猿と共通の先祖から変化し進化してきていますが、環境や食物の変化などに起因して骨格や体格、思考や能力も淘汰圧の結果、変化してきたものと考えられています。
ですから、猿からヒトへ変化したのも、次の段階へ進化する生物も、それまで適応できていた安住の地を追われ、新たな環境に挑戦しなくてはならなかった進化の淘汰圧がかかり最適化してきた新しい生物種だということです。
これらの、淘汰圧による優れたメカニズムを人工的に再現し、劣悪な環境や人的ストレス関係の中で延命したがゆえに脳神経細胞が変性した認知症の対応に応用しようというのです。
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生体工学で、ハス科の植物の表面を研究することにより、ロータス効果と言われる撥水加工技術が生まれたことはご存知の人も多いと思います。
現代の船体構造はイルカの肌を模倣した効率的な船殻になっています。
コウモリの反響定位を模倣したソナーやレーダー、医療超音波画像などは生体工学から生まれたものです。
コンピュータの分野では、生体工学の研究から人工神経や「全脳アーキテクチャ」と呼ばれる脳型AIニューラルネットワーク「TrueNorth(トゥルーノース)」が誕生しました。
また、鳥や昆虫の群れに見られるように、簡単なコミュニケーション方法や集団としての高度な動きを模倣した郡知能(swarm intelligence)などが生まれています。
材料になるのは生きた組織や細胞です。それらを様々に組み合わせ生物の設計図を自由に組み合わせ特定の役目を行わせるようにするのもので、命をデザインするということかもしれませんね!
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カリフォルニア工科大学とハーバード大学では、生きた組織に手を加えて生体工学的な存在を生み出す研究が行われています。
メディウスソイドと呼ばれるもので、生物組織と合成物質を組み合わせて生み出されました。
人間の心臓をゼロから作る足掛かりになるものです。
現時点のメディウスソイドは、ロボットと人工組織を合わせたものといえます。
メディウスソイドの研究は、クラゲが一定のリズムで泳ぐ様子と人間の心臓が脈打つ様子が驚くほど似ていることに着想して始まりました。
科学者たちは完全な人工クラゲを生み出せれば、その仕組みを利用して電源のいらないペースメーカーを作れるのではないかと考えているのです。
さらには人工心臓までも・・・
メディウスソイドを構成しているのはシリコン製のベースとラットの心臓の細胞です。シリコンのベースは、100%化学合成物質で、そして一方、心臓の細胞は本物のラットから採取したものだそうです。
そして、研究チームはシリコンとラットの心筋細胞でメディウスソイドという人工クラゲを生み出しました。
心筋細胞は規則的に収縮するよう遺伝子的にプログラムされています。
その動きでメディウスソイドを動かそうというのです。
問題は細胞の収縮をどうやって起こすかということでした。そして、もう一つが各細胞をいかに同じリズムで収縮させるかです。
そこで、ベースとなるシリコンの膜をある糖タンパク質フィブロネクチンでコーティングしました。心臓の表面に存在しているフィブロネクチンにはバラバラの細胞を並べ接着する働きがあります。
細胞が定着したら残るステップは一つ、メディウスソイドに息を吹き込むのです。その方法が電気ショックです。
電気を流すと細胞は一斉に同じリズムで収縮を開始、メディウスソイドは、本物のクラゲのような動きで動き始めまたのです。
この人工クラゲが刻む鼓動こそ完全な心臓を作るための第一歩です。実現すれば、ラットではなく本人の幹細胞を採取し遺伝子的にも完全に一致したオーダーメイドの心臓が出来るでしょう!
このように、筋肉細胞の一つにも、生命体と考えておかしくない要素が複数存在しています。
問題はそれらを組み合わせて生きていると判断できる実態が形作れるかどうかだということです。
同じクラゲの研究で、認知症に関係するもう一つの生物の創造があります。
「記憶を人為的に書き換える」と言うアーノルド・シュワルツネッガー主演の映画「トータルリコール」をご存知ですか、1990年の映画ですが、その内容は、フィリップ・K・ディックの短編小説「追憶売ります」を原作とした仮想現実を取り上げた先駆的な映画です。
www.youtube.com/watch?v=QUHWdB9wEPA
その技術が、オプトジェネティクス(光遺伝学)の技術により現実のものとなりつつあります。
オプトジェネティクスとは、光学(オプティクス)と遺伝学(ジェネティクス)とを融合させた研究です。ノーベル物化学賞を受賞した下村修博士によって発見された緑色蛍光タンパク(GFP)に手を加えることで、神経伝達物質や電圧、カルシウム濃度などの変化を検出できる分子センサーが完成したのです。
これもまたクラゲ(オワンクラゲ)のお陰です。
これにより神経ネットワーク内の情報処理を追いかけることが出来るようになったのです。
ハーバード大学の利根川進博士らは、マウスの海馬に存在する特定の細胞群に光を照射して、恐怖心を伴う“ニセの記憶”を作り出すことに成功しました。
そして、この研究を更に進めて“良い記憶”と“悪い記憶”とを人為的に切り替えることにも成功したのです。
カリフォルニア大学デービス校では、オプトジェネティクスの技術を用いて神経細胞の活動を制御し、エピソード記憶(出来事記憶)の呼び出し「パス」の存在を実証することにも成功しています。
いよいよ、脳の局在機能の解明が始まった訳です。認知症やパーキンソン病のような神経疾患の治療応用の幕開けですね!