★プロペラノロール★
自己に影響を与えるのは、環境や自分が愛した人、失った人たち、辛い記憶は深い傷のようになかなか消えず、立ち直ろうとする私たちの足を引っ張ります。
モントリオールのMcGill University(マギル大学)で※PTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)の治療を研究する心理学者、Alain Brunet(アラン・ブルネ)博士はこの心の病を深く理解している人物です。
http://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_ptsd.html
1989年モントリオール大学で、カナダ史上最悪の銃乱射事件が発生、この時、大学院生だったブルネ博士は、キャンパスに居合わせたのです。
犯人は廊下で発砲し始め十名以上の女性が亡くなりました。
事件の後になされた危機介入はずさんで、私たちの多くは、とても後味の悪い思いをしたのです。
この事件で起きたショックが、PTSD研究のきっかけになったといいます。
凄惨な事件は、ブルネ博士の進む道を決めました。
彼はPTSDに悩む人々が喪失した事故の一部を取り戻す手助けをしています。
忘れてしまいたいという出来事が、逆に脳の中に焼き付けられてしまい、それが強烈な記憶となって不必要な場面で恐怖を引き起こしてしまうのです。
記憶はインクで文字をかくのに似ています。
インクが乾かないうちに指で上からこすってしまえば、書いた文字は滲んで、読み取ることが出来なくなります。
これは、記憶の仕組みと同じです。
しかし、感情に訴えかける記憶の場合、脳内のたんぱく質がニューロン間の結合を構築し、長期記憶の保管場所へ移送します。
このため、印象が長く尾を引くのです。
インクが乾けば、文字は消えなくなるように記憶も定着します。
時間の経過で多少薄れても、思い出すことが出来るのです。
多くの科学者は、いったん記憶のインクが乾けば、消すことはできないと考えています。
しかし、ブルネ博士は、呼び起こすたびに記憶が新たに作られているのではないかとみているのです。
記憶を呼び起こすと、脳の中では再び活動電位が生じます。
インクをあらたに付けて、文字を改めて書き直すような感じです。
辛い記憶を和らげるチャンスは、その記憶を思い出す瞬間にあるとブルネ博士は考えています。
ブルネ博士の患者の一人は、幾度となく辛い出来事にぶつかっても、なんとか乗り切ってくることが出来ましたが、娘の死は違ったといいます。
あまりのショックで仕事も何もかも手につきません。完全に自分自身を見失ってしまったそうです。
そこで、ブルネ博士は彼女に集中治療を行うことにしました。
まず、彼女に課せられたのは、心の傷となった出来事を自分の言葉でつづり、それを読み上げて辛い記憶を思い出すという作業です。
午前5時にチャイムが鳴り、娘だと思って寝巻のままドアを開けると警官が立っていました。
部屋着を取りに戻ろうとすると内にはほかに誰かいるかと尋ねられました。
ブルネ博士は、あらかじめ彼女にプロペラノロールという薬を投与していました。
これは、血圧を下げるβ1受容体とβ2受容体を遮断するアドレナリン作動性効果遮断薬のひとつで、軽い記憶障害の副作用があることで知られています。
何か大変なことが起こったのだと悪い予感はして、鼓動が早くなり体が心から震えだす感じがしました。
居間に戻ると、娘がトラックに跳ねられたと告げられました。娘は死んだのです。
私はその場にしゃがみ込み、泣き崩れました。
あまりの悲しみに胸を締め付けられ、耐えきれない思いでした。
週1回、6週間に渡って治療を行った後、自身の辛い体験に対する反応をテストや面接、精神生理学的検査などで評価していきます。
6週間の治療を受けた患者の7割は、PTSDの症状は消えトラウマを追体験することなく思い出を語ることが出来るようになっています。
わずかなプロペラノロールの投与で、患者さんたちは長年苦しめられてきたPTSDから解放されたのです。
ブルネ博士の治療で辛い記憶を修正した患者は、生活を立て直し、自分自身を取り戻すチャンスを得たのです。
心的外傷で人生は一変してしまうでしょう。
ブリュネは特定の記憶だけを巧みに調整する方法を見つけ出したようです。
しかし、変化や修復のタイミングは予測できても、自己を創るものは何か…という最も根本的な問題は、まだ解明されていません。
そもそも何が脳の自己認識を可能にしているのでしょうか。
そこで、シリコンの電子回路にその要素を再現することで、答えを見出そうとしています。
私たちが何処へ行こうと付いて回る自己の本質、それは脳内に張りめぐらされた神経回路のどこかに息づくものです。
次回は、この生体ネットワークをシリコンの電子回路上で再現しようとしているお話です。自我に目覚めるロボットを、私達が作り出す日は、そう遠くないかもしれませんね。