Science Park 【特別号 塩井博士の気になる本】2

今回のScience Parkは特別号として、元マウント・サイナイ医学部助教授、現「認知症高齢者問題研究所」理事の塩井純一博士が、

最近、ニューヨークで開催された日本人会で「東大教授、若年性アルツハイマーになる」と、

「おやじはニーチェ認知症の父と過ごした436日」の本を紹介したそうです。

原本をお読みになった方々もいるとは思いますが、塩井博士の感想文が、あまりに身に迫ったお話であったので、今回のメルマガは読後感想文を、ご紹介したいと思います。

塩井博士は、長年に亘り、最先端でアルツハイマー病を研究してきた方で、

最近は、私ども認知症高齢者研究所で電子機器・携帯機器を活用した高齢者介護のシステム開発に関わって頂いています。

アルツハイマー病に代表される認知症の多くは高齢化に伴って顕著に表れてくる特徴があり、

近時の高齢化社会の出現による患者数の急激な増加で注目される様になってきました。

また他の多くの病気が急性なのに対し、いわゆる神経萎縮症に属するアルツハイマー病は発病後も10年数年に渡って慢性的に進行するのも特徴であり、

そのうえ治療法が未だ見つかっていない現況下で、長期に亘る患者の介護が深刻な問題になって来ています。

病気を治す「医療」のシステムが社会的に確立しているのに比べ、治す事のかなわない病気の長期「介護」のシステムの開発は非常に遅れているのが現状です。

医者やプロの介護士によるケア以上に家族や親族による個々の体験的な介護の比重が大きいのが現実であり、

他方供給の限られる医療・療養・介護施設に収容するよりも住み慣れた自宅で療養する在宅介護が望ましく、また現実的と考えられる様になってきてます。

更に最近の介護研究・行動観察から、患者本人の意思・意欲の重要性が認識される様になり、

「患者を介護してあげる」というより「患者の自立生活を長期的に支援する」方向に向かいつつあります。

その様な現実と考えに立って、医療者、介護士、家族、更には患者本人も含めての連携、いわゆるチームケアの必要性が高まって来ており、

タブレットやスマートフォン等の電子機器を駆使しての、医療や介護記録の収集・解析・対応策とその閲覧における情報の共有化により、

チームケアが可能になりつつあります。

またインターネットにより、お互いが離れていても繋がることが出来るので、

これは在宅介護における患者やその家族(同居していない場合も含めて)には強力な武器になると思われます。

更に膨大な数の個々人の介護・観察記録の統合が可能になり、それに基づいた信頼度の高い対応策が提示されつつあります。

この所謂e-ヘルス、或いは モービル機器を駆使する m-ヘルス/m-メディスンとして、

例えば、腕時計タイプのワイアレスセンサー機器により、体温や血圧、更に排尿・排便や睡眠パターンの常時遠隔モニターが可能になってきており、

離れた場所で何人もの患者の様子が観察出来る様になってます。

この継続的な遠隔測定・観察に基づいて状況に応じた効率的な巡回・訪問介護サービスが可能になります。

他方、入浴介助など体力を要する介護労働を代替え・補助出来るロボットの実用化も進んでおり、これらの最先端技術も研究開発が進んでいます。

この、電子機器やインターネット、モービル機器を駆使したe-メディスンや m-メディスンが過疎地医療に有効である事が実際に示されており、

この事は、ニューヨークメトロポリタンエリアに住む日本人高齢者の介護ケアにも有効であろう強い期待を抱かせ頂いている方でもあります。

以下、読後感想文

「おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日」高橋秀実著、新潮社、2023年

毎日新聞の今年2月7日東京夕刊に掲載された高橋秀実氏に対するインタビュー記事で「(認知症の)おやじは不幸には見えませんでした、と高橋さんは振り返る。(妻)キヨ子さんがいなければ生きていけない、が口癖だったが、亡くなった途端にすっかり忘れ、どこか多幸感にあふれていた。妻の死を認識していなかったという。一人になって孤独か、と尋ねられた昭二さんの答えは、ちょっと秀逸だ。『孤独? それは学問がある人が感じるものだろ。俺にはない』」と語っており、本書に俄然興味をかきたてられ早速紀伊國屋書店で注文・取り寄せてもらいました。著者の父、高橋昭二氏は1931年9月生まれで、ペンキ職人、29歳で結婚(1960年?)し息子の秀実が1961年に生まれます。2018年12月(昭二87歳)に妻キヨ子が亡くなると突然認知症が露見するのですが、実のところ炊事・洗濯など妻に任せっきりでやったことがなかったのですから、いつから病気が発症していたのか判らないのです。「認知症とは何か?」実際的、実務的には「自立生活が出来ない」のを認知症としているので、生まれた時から認知症だったとも言えかねません。2020年2月に亡くなるのですが、この2018年12月時点ではもうかなり進行しています。「父は母の死を認知していないようだった。(通夜の)弔問客が来れば、『いらしゃいませ』などと丁寧に対応する。その人が泣くと、もらい泣きして『俺も悔しいよ』と泣き崩れる。しかし帰った後に、母の遺影を見て『これは誰だ?』と私に訊く。——『お母さんは死んだんだよ』私が説明すると、父は『そうだ』とうなずいた。しかしよくよく聞いてみると父にとっての『お母さん』は父の母のことだった。——『キヨ子さんが亡くなったんだよ』母のことを名前で言い換えると、父は『キヨ子さん?』と首を傾げた。名前を忘れてしまったのかと何やら切なくなったのだが、——おそらく私が言う『キヨ子さん』という言葉に違和感を覚えているのだろう。私が母のことを名前で呼ぶのはヘンだし、父に対してこれまで言ったことがないわけで、父からすれば初めて聞かされる名前なのかもしれない。そこで母のことを『お父さんの奥さん』と言い換えてみたのだが、すぐさま『お父さん?』と訊き返された。『そう、お父さんの』とうなずくと『俺のお父さんは尚之助っていって——』と昔話を始めようとしたので、『いや、お父さんのお父さんじゃなくて、お父さんのさ』と否定すると、丸くなった目が縮瞳を起こした。確かに『お父さんのお父さんではないお父さん』という言い方は続き柄と呼び名が併存しており、誰のことだかわからず、まるで実在のお父さんとは別のイデアとしての『お父さん』に言及しているかのようである」と落語か漫才のような会話・場面描写だけでなく哲学的な考察もなされます。この状態では父をひとりにするわけにいかず、息子夫婦はそのまま実家で同居となるのですが、取り急ぎ介護保険のサービスを受けられるように、要介護認定取得のための面接を受けます。「―今日は朝ごはんを食べましたか?『はい、おいしくいただきました』溌溂と答える父。ちなみにアルツハイマー型認知症の特徴は『挨拶もできて表情は豊か、ニコニコと協力的で、多幸的な印象』とされている。しあわせそうに見えるという症状なのだ。―何を召しあがりましたか?『ふかふかふかっと、ふっくら炊きあがった白いごはん。それに、あったかい豆腐のお味噌汁。それと焼いた鮭、ほうれん草のおひたしもいただきました』目の前に膳があるかのように父は手ぶりを交えて説明した。実はその日の朝食は私が用意したトーストと目玉焼き。まるっきりのウソにもかかわらず、湯気さえ感じさせるリアルな口ぶりに私は感心した。——―今、季節は何ですか?『施設?』反射的に問い返す父。―しせつ、じゃなくて、きせつです。春、夏、秋、冬のうち、どれですか?父は『う~ん』と唸り、こう答えた。『それは別にどうってことないです』私(息子)も訊かれた瞬間、『あれっ、今、いつだっけ?』と思った。地球温暖化の影響か、最近は季節感が定かではなく、季節は『別にどうってことない』のである。——―それでは、私がさっき言った3つの言葉を思い出して下さい。『なんですか、藪から棒に』言い返す父。―いや、最初に私は『覚えておいてください』と3つの言葉を言いましたよね。それを言ってみてください。『そういうことは、前の日に言ってもらわないと、いきなり言われても困っちゃうじゃないですか』―いや、ですから——。」この面接を終えて「要介護3(5段階中)」の認定を受けます。調査員が帰ったあと、著者も「長谷川式簡易知能評価スケール」に基づく診断を試みます。「―100引く7は?『100引く7?』父は驚いたような表情を浮かべた。―そう、100引く7。『100引く7って、こう、引くのか?』綱引きのような仕草をして父はたずねた。―そう、引く。『じかに?』真剣な面持ちで父は訊いた。——『それでいいのかって、訊いているんだよ』『お前ね、じかにって簡単に言うけど、そりゃ大変だぞ』―大変なんですか?——父の顔をじっと見ていると『じかに引くのは大変』というのも一理あるような気がした。通常は数字をじかに引くのではなく、物体などに仮託して個数や金額として引いたりするわけで、数字から数字を『じかに』引くのは数字自体の存在を破壊するようである。——―ところでさ、俺たちが今いるところはどこ?これは『時間や場所の見当識』のテスト。『どこが?』父はそう問い返した。―どこがって、ここが。私は床を指差した。『ここがどこかって?』―そう、ここはどこ?『どこが?』―ここが。『どこ?』いや、だからここ。『だからここってどこだ?』——逆に質問されて私は一瞬、わからなくなった。『ここ』はここであって、『どこ』でもないのである。——ここはどこなのか?問われているのは『ここ』の住所や店の名前ではない。私は『ここ』と発声することで父が置かれた時空間の起点を呼び覚まそうとしたのだが、どこでも『ここ』になりうるわけで、最初に指差した『ここ』は床であり、後に示した『ここ』はテーブルだった。——もしかすると父は私が『ここ』の個別性ではなく、普遍性を訴えていると感じたのかもしれない。『ここ』を限定出来ないのは母を特定できないことにも通じているようで、これは認知症というより、認知そのもののあり方、つまり哲学の問題でもあるのだ。認知症は治らないといわれている。しかしこれが病気ではなく哲学的問題なら、たとえ治らなくても解決することはできるのではないだろうか」とこれら一連のやりとりも漫才的ですが、哲学者カントやヘーゲル、ニーチェなどを持ち出しての著者の解釈・考察の鋭さが凄いです。

「もし父に正確な記憶があったら、と考えるとぞっとする。これまで私が父にしてきたこと、過去の家出や数々の失言や暴言をすべて記憶していたら、介護どころではないだろう。何事もすっかり忘れてくれるから、昔から親孝行だったフリもできるし、介護も可能になる。前日のことを覚えていたら、部屋の片付けもいちいち『何をしたんだ?』と作為を疑われるが、すっかり忘れているので黙って片付けても最初からそうだったかのように見える。怒っても忘れるから仲直りできる。細かいことを忘れるから毎日フレッシュな一日をスタートできるわけで、ニーチェの言葉を借りるなら『忘れるということは、なんとよいことだろう』(ツァラトゥストラ)と感謝したいくらいで、認知症でよかったような気もするのである。もしかすると父はニーチェなのかもしれない。『ニンチ』ではなく『ニーチェ』」この考察から本書のタイトルが生まれたと思われます。

この後も、おもしろいエピソードとそれに関する興味深い考察満載なのです。例えば:

「時折、父は私のことを『社長』と呼んだ。ふとした拍子に『社長は何時頃に寝るの?』と訊いたり、私の顔を見て『社長が来てくれてよかったあ』とよろこんだりするのである。機嫌がよい時には『お兄ちゃん』と呼ぶこともある。散歩の前に『お兄ちゃんについていく』と宣言し、コンビニの前で『こうやって義兄弟で散歩できるなんて最高だ』と叫び、真顔で『お兄ちゃんは今、どこに住んでるの?』とたずねたりする。大丈夫なのか、と心配にはなるのだが、私は自営業者なので社長といえば社長だし、長男なので『お兄ちゃん』でもある。しかし『お兄ちゃん』は三男である父が慕っていた長兄のことかもしれず、あやふやなまま適当に相槌を打っていると、ある日、父がこう打ち明けたのである。『実はウチにも子供がいてね』―え、えっ。反射的に私は驚いた。ウケたと思ったのか、父は微笑みながらうなずく。―その子供はどこに?『すっかりエラクなっちゃってさ。口なんかきけないよ』そう言って口にチャックする父。―そうなの?『そうだよ。下手なこと言ったら、何言ってんだ、おやじ!って怒られちゃう』父は真剣な面持ちだった。おそらくこれは精神医学用語でいう『失認』である。『視覚失認』というべきで、認知症としては『息子の顔が分からない』という典型的な症状である。なぜこうなるかというと、〈『回帰型』の認知症と呼ばれ、過去に戻ることで、元気で生き生きした自分を取り戻そうとするものです。自分は若いころに戻っているわけですから、大人になったわが子を見ても、だれだかわからないのは、当然だといえるでしょう。〉(『名医の図解 認知症の安心生活読本』鳥羽研二著より)——そこで私が『お父さんは今いくつ?』とたずねてみたところ、父は即答した。『46』―46歳?私が驚くと、父が続けた。『ちょうどそれくらいになるだろう?』まるでタイムマシンの計器を読む口ぶり。計算してみると、父が46歳の時、私は高校生だった。生意気の盛りで父ともあまり口をきかなかった『ちょうどそれくらい』の時期ではないか。―す、すごいね——。『そうかい』はにかむ父。父のタイムスリップぶりにも驚かされたのだが、私は自分自身の反応も意外だった。認知症が進行すれば、父は私のことを忘れる。父に忘れられた息子になるわけで、さぞかしショックを受けるだろうと覚悟していたのだが、不思議なことにショックはあまりないし、取り立てて違和感も覚えなかったのである。こういう局面では『認知症の人を安心させるような演技』をするべきなのだそうだが、父も私もいつも通りのような気がする。普段から演技しているのかもしれないが、そうだとしても自然な演技の延長なのである」これを題材に「認知症とは言語観の問題かもしれない」という議論を展開します。また「生きることは、役を演じる、演技することだ」みたいな考察もします。

上記のエピソードは介護開始まもない頃の出来事ですが、本書最後の方は介護終盤、2020年1月「末期の胃癌」で胃の出口が塞がっていることが発覚、内視鏡で胃の出口にステント(金属製の筒)を留置させる手術をします。入院して1週間ほど経った後の記述です:

「付き添って寝泊まりしている私のことを『旦那』と呼ぶ。完全に見ず知らずのひとになってしまったようなのである。例えばある午後、父は私にこうたずねた。『旦那はここ、初めてなんですか?』真剣な面持ちの父。『初めてじゃありません』とかしこまって答えると、こう続けた。『いや、あたしなんかペンキ屋なんです。それこそ100円もらうところを50円でやったりしてるんですよ。ここなんかずいぶん広いでしょ。大家さんは誰なんですかね』ここは仕事できた現場。私はそこに居合わせた『旦那』のようなのだ。『今度ウチの近くに来たら寄ってくださいよ。——』父は一気に語り続けた。―お母さんと一緒に住んでいるんですか?とたずねてみると、『おふくろでしょ、あと妹』と指折り数えた。―結婚はしてないんですか?『俺?』―そう。『してないですよ、旦那。だってこれがいないじゃん。』小指を立て、私を小突く父。―今、いくつなんですか?試みにそうたずねると、父は自分を指差した。『あたし?歳?28歳』ちょうど結婚前の歳である。タイムスリップとしては年齢が合っている。——―昌雄さんはどうしたんですか?唐突に私はたずねた。昌雄さんは父の長兄。父が28歳の頃、昌雄さんはシベリアでの抑留生活を終えて帰国していたはずである。『ま、昌雄は兄貴だよ』父は目を丸くして驚いた。―シベリアから帰ってきたんでしょ?『おおおおお、よく知ってんじゃないですか。俺の兄貴だよ。俺の兄貴。いやいやいやいやいや、本当にびっくりした。なんで、なんで知ってるの?』——『旦那、一体、どこの人?』―どこって?『どこで生まれたの?』―うまれたのは横浜市中区上野町。『うそお、うそだあ』私の方を思い切り叩く父。―うそじゃないですよ。『だって俺と一緒だよ。中区上野町っていったら。大体、旦那は学校どこ?』―希望ヶ丘高校。『うわあ、最高じゃん。本当に?』―本当に。『だってそれ、ウチのせがれと同じ。それで大学は?』―東京外国語大学モンゴル語学科。『やだ、やだ、やだ、やだ。それじゃあまるっきりウチのせがれと一緒じゃないですか。旦那は名前はなんていうの?』―タカハシです。『やだ。名前も一緒。下の名前は?』―ヒデミネっていうんです。『知ってる。その名前知ってる。聞いたことある』」。全く抱腹絶倒、この最後でガクッですが、著者は自分たちのこの親子関係についての哲学的な考察を展開します。私も記憶と認知の関係に考え込まされます。この父は息子ができる前の28歳に戻ってはいるのに、その後にできる息子のことを知ってはいるのです。でも目の前の中年になった息子は認識できないのですから。この会話の最中、リアルタイムでSPECT(脳の血流を測定)か機能的MRI(脳の血流中のヘモグロビンの状態を見る)を使ってどこの脳部位が刻々と活性化してゆくのかを見てみたいものです(技術的にはまだ無理)。あるいは、この会話をAIに学習させて、この認知のロジックを解明させられるかもしれません。もし認知症が「原始脳」に戻るのなら、この原始脳ロジックの解明から正常人のより複雑・高度化した認知・認識の脳科学的解明・理解が可能かもしれません。 著者はノンフィクション作家であり、様々な人とのインタビュー経験があり、相手の言葉を引き出すのがうまいですし、その意図を汲もうとする技術、更には思索にも優れています。また奥さんの示唆で、この父とのやりとりをメモするようになったのが、本書の観察記録としての価値を上げています。脳科学者の私から見ても、この東京外国語大学卒の著者の「認知」についての学識、並びに根源的・哲学的洞察に感心すること大です。その内容・内実を脳科学的に検討したいところですが、かなりの思索を必要としそうなので、今後の宿題とさせて下さい。

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