Science Park 2025年11月号(後編)

記憶の海へようこそ(後編)

第四章 ストレスと記憶のもうひとつの関係:「忘れる力」

人の記憶とは、情報を格納する記憶ホルダーがいっぱいにつまった。ファイルキャビネットの様なものだといった人がいます。

しかし、記憶というのは、これまで考えられていたよりも遥かに複雑で捕らえどころのないもののようです。

それは、単純に一つのシステムでなく脳全体にまたがる複雑なプロセスだからです。記憶はわれられの想像以上に精巧なものなのです。

また、記憶には、ただ「覚える」だけでなく、「忘れる」という重要な役割があります。 それは、ストレスから心と身体を守るための防御反応でもあるのです。

私たちの生活には、赤ちゃんの泣き声、上司の小言、交通渋滞、試験のプレッシャーなど、日々ストレスの種があふれています。 こうした刺激を受けると、脳の偏桃体が反応し、アドレナリンやコルチゾールといったストレスホルモンが分泌されます。 その結果、心拍数が上がり、呼吸が浅くなり、瞳孔が開き、身体は「戦うか逃げるか」のモードに入ります。

この反応は本来、命を守るための生理的な仕組みです。 しかし、現代社会ではこの反応が過剰に起こりやすく、記憶や集中力に悪影響を及ぼすことがわかっています。

理化学研究所と九州大学の2025年の共同研究では、強い感情を伴う体験が、アストロサイトという脳内の細胞によって“記憶の痕跡”として残されることが明らかになりました。

https://www.amed.go.jp/news/seika/files/000150687.pdf

この痕跡は、再び似た状況に直面したときに記憶として再活性化され、ストレス反応を強める要因にもなり得るのです。

また、ストレスホルモンの過剰分泌が続くと、記憶を司る海馬の神経細胞が損傷し、短期記憶の低下や記憶の混乱を引き起こすこともあります。 つまり、身を守るはずの反応が、逆に脳を傷つけてしまうこともあるのです。

とはいえ、ストレスを完全に排除することはできません。 だからこそ、ストレスにどう向き合うかが大切です。

研究によれば、ポジティブな言葉や応援は、脳のパフォーマンスを最大80%まで高めることができると報告されています。 そして、最も効果的なストレス対処法のひとつが「笑い」です。 笑いは、ストレスホルモンの分泌を抑え、脳の緊張をゆるめ、記憶力を回復させる“天然の処方箋”なのです。

第五章 脳が紡ぐ虚構と真実

記憶は、私たちの人生を形づくる大切な要素です。 それは過去を記録するだけでなく、未来を予測し、今この瞬間の選択に影響を与える“生きた情報”でもあります。

しかし、記憶は決して完璧ではありません。ときに曖昧で、ときに創造的であり、さらには私たち自身を守るために“忘れる”という働きさえ持っています。 むしろ、記憶は細かい情報の保持を苦手としているのです。その理由のひとつは、脳がときに勝手に記憶を作り出してしまう性質にあります。

人や場所、出来事の詳細が脳内で再構成されることで、実際には起きていないことを、あたかも体験したかのように錯覚してしまうことがあります。 つまり、私たちの脳は偽りの記憶(false memory)を生み出すことがあるのです。

人は誰でも過去の出来事を思い出しますが、その回想の中に「前世の記憶を持っている」と語る人もいます。 では、前世の出来事を思い出せると信じる根拠は何なのでしょうか。

それは、おそらく脳が記憶を整理する最終段階で、実体験と想像や外部情報が混ざり合い、記憶の内容が変化するからだと考えられています。

人間は、事件や災害、恐怖、死などの強烈な体験によって、記憶が変質することがあります。これはPTSDに関連する現象で、「自発的想起」や「残留記憶」と呼ばれています。

たとえば、歴史的な出来事を歴史書で深く学んだときや、小説の世界に没入したとき、自分がその場にいたかのような感覚を覚えることがあります。 アルツハイマー病の初期には幻覚の頻度は低いものの、このような妄想的な記憶が現れることが知られています。

細部にわたって学びを深めていくうちに、こうした記憶がまるで自分の人生の一部のように感じられるようになるのかもしれません。 このように、人の脳と記憶は、驚くほど単純で、そしてたやすく操られてしまうのです。

特定の出来事に関する詳細な情報を与えられると、脳はそれを自らの体験として受け入れ始めることがあります。 これはまさに「自発的想起」と呼べる現象です。

実体験かどうかは関係なく、脳内の記憶は新しい情報によって“汚染”され、操作されてしまうことがあります。 本人の意思とは無関係に、記憶の細部が混乱し、事実を誤って認識してしまうのです。 言い換えれば、これは人間の脳が本来持つ特性なのです。

認知症ケアの現場では、こうした記憶の不確かさに寄り添う姿勢が求められます。 教育の場では、記憶の仕組みを理解することで、より効果的な学びが可能になります。 そして、私たち一人ひとりが記憶の柔らかさを受け入れることで、他者との関係にも優しさが生まれるのです。

記憶は、脳の中だけでなく、人と人との間にも宿るもの。 だからこそ、私たちは記憶を“信じる”だけでなく、“育てる”ことができるのかもしれません。

今日のあなたの記憶が、明日の誰かの希望になりますように。 そして、笑いとともに、記憶がやさしく流れていきますように。

第六章 脳が信じる“真実”の仕組み

私たちはなぜ、事実でもない記憶にたいそうな自信を持てるのでしょうか?

研究では、人の短期記憶は、1回の出来事で47つのデテールしか脳内に保持できないのです。

これがアメリカの心理学者のジョージ・ミラー(George Miller)博士の言う「マジック7」なのです。

その数を超えると、人は記憶違いを起こすと言われています。

短期記憶が保持できない情報量に達したとき、人は混乱し始めます。

この仕組みが、日々の生活の中で、勘違いを生み、それを信じているのです。

このように虚偽記憶(False Memory)は珍しいことではありません。

特に感情が高ぶる出来事の時は、こうした虚偽記憶が生じやすいのです。

記憶に自信があっても、その記憶が正しいとは限らないのです。

記憶は書き換え可能だからです。

私たちの脳には、数多くの記憶が詰まっていますが、それらが正しいかを証明できるのでしょうか!

出来ない時の方が多いのです。

自分(思い)を信じなさいRemembering is believingと言われますが、人は、聞きなれた話題の場合や誰にでも当てはまる曖昧なことを自分に当てはめて、そのものを過大評価してしまう癖があるようです。

その心理現象は「バーナム効果」とか「真実性錯覚効果」と言われています。

人は一つの主張を聞けば、聞くほど客観的な真実に関係なく、その主張を信じてしまう傾向があるのです。

メッセージを反復すれば、人の頭に記憶をねじ込み、虚偽の真実を強化してしまうのです。

継続的なプロパガンダが効果的であるのも広告会社が同じコマーシャルを繰り返すのも記憶の中にメッセージを植え込むバーナム効果であり真実性錯覚効果なのです。

人の記憶が細部を無視するケースは、他にもあります。

実は脳は、意識して得たい情報の判読が終わると、いともたやすく、細部を見過ごしてしまうのです。

そして、予期していないものは見ないようにしてしまうのです。

脳は全体像を把握する過程で、細部をないがしろにしますが、そこで、人の記憶の重要な役割が浮き彫りになってきます。

ただの間違いに思えることでも、実はそれが脳の仕組みを表しているのです。

35億年に渡って生物が進化しているといってもこの程度なのです。

しかし、他の動物に比べると人の脳は効率を優先しているようです。

なぜならば、脳の消費エネルギーは、およそ15ワット程度ですから、大事なことのみに集中しなくてはエネルギー不足になって何も記憶できなくなってしまうのです。

編集後記

記憶とは何か?この問いをたどる旅は、まるで一滴の水が川となり、海へと注がれていくようなものでした。

第一章から第六章までを通して、記憶の本質に少しずつ近づけましたか?

記憶は、ただの過去の記録ではなく、未来を予測し、今を選ぶための“生きた情報”。 しかしその一方で、記憶は曖昧で、変わりやすく、時に創作され、時に忘れられ、そして何よりも、私たち自身を守るために働いています。

脳は、すべてを記録することはできないこと、限られた情報だけを選び取り、必要に応じて再構成し、時には事実でない記憶にすら確信を抱かせてしまう。

それは不完全さではなく、むしろ生き延びるための知恵であり、35億年の進化が選び取った“効率”のかたちなのですね。

感情が高ぶるとき、記憶はより強く、しかし同時に歪みやすくなります。 バーナム効果や真実性錯覚効果が示すように、私たちは自分に都合のよい物語を信じ、繰り返される言葉に安心を覚えること、それでも、そうした記憶が私たちを支え、時に癒し、前へ進む力をくれるのもまた事実なのですね。

記憶は、脳の中だけにあるのではありません。 それは人と人とのあいだに生まれ、交わされ、育まれていくもの。 だからこそ、私たちは記憶を“信じる”だけでなく、“育てる”ことができること忘れないでください。

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