塩井純一
「The old man and the sea」
Ernest Hemingway著、Charles Scribner’s Sons、1952年刊
私は脳科学者として、脳機能、殊に「こころ」の働き、を生物学的に、生化学的に、更に分子生物学的に理解しようと数十年にわたり格闘してきたのですが、その解明にはまだまだ道遠しを、思い知らされてきました。
この唯物論的ともいえるアプローチに対し、精神分析、心理学、或いは哲学的な思考にみられる唯心論的アプローチもあり、中でも「文学」はこの「こころ」の働きを理解しようとする、有史以来数千年にわたる人類の壮大な試みだったのではないかと捉えています。そのような偏見・独断かもしれない文学観で本書を考察します。
生殖によって子孫を残す全生物の中の一つの「種」である人類が、脳の機能や「こころ」もその方向で進化させてきたのは容易に理解できます。実際、文字の発明以来の数千年にわたる韻文・散文の「文学」の多くが「恋愛」「男女関係」を謳い、語っているのです。これは生物本能に基づいた知的活動と言えそうです。他方人類は数万年前の言語の発明により、個々人の脳がつながり集団脳を形成したことで、高度な社会を築き始めます。この言語活動の主要一部を担う「文学」が社会的軋轢に悩む人間の「こころ」を題材としてきたのも当然のなりゆきでしょう。
さていよいよ本題ですが、本書は「恋愛・男女問題」「社会的軋轢・悩み」の二大テーマを扱わず、登場人物の背景からもそれらを意識的に削ぎ落そうとした様に思われます。この二大テーマを切り捨てて、どこまで人間を、ヒトの「こころ」を、表現できるかに挑戦した作品なのではないかと、私は評価しています。巨大カジキとの三日間にわたる孤独な闘いが展開されるのですが、通俗的な冒険・探検モノ、或いはスポーツドラマと一線を画しているのは、恋愛やら何やらの人間関係の背景を極力削ぎ落し、単純に主人公と人間ではない巨大カジキとの一対一の対決に純化しているからなのではないかと考察しています。このクライマックスでの闘争本能や征服欲、或いは男の意地の描写も見事ですが、その後、持ち帰ろうと船側に縛り付けた戦利品の巨大カジキを繰り返し襲い来るサメに対して繰り広げられる絶望的な闘いの描写も見事です。奇跡的ともいえる巨大な勝利とそれに続く無残な敗北、大いなる歓喜と喪失・悲哀、人生の縮図をみる観があります。更に付け加えれば、人間関係の背景を極小化することで、主人公である老人と、彼を慕う「少年」との「こころ」の交流、利害関係のない、純な交流を際立たせていると言えそうです。
「動物たちは何をしゃべっているのか?」
山極寿一、鈴木俊貴共著、集英社、2023年刊
ゴリラ研究第一人者の山極寿一の仕事を読み知っていたのと、人間と他の霊長類との進化系統樹上の近さから、霊長類のコミュニケーションについてはあまり驚かなかったのですが、鈴木俊貴による鳥のコミュニケーションには驚かされましたし、更に彼のユニークな研究方法には感心させられました。例えば、シジュウカラは天敵のタカを見ると「ヒヒヒ」、へびを見ると「ジャージャー」と鳴き、異なる対応をするのですが、この鳴き声が対象を言語化・シンボル化しているのかを実験的に証明するのです。20cmほどの木の枝にひもを付けて木の幹沿いに引き上げながら、録音した「ジャージャー」を聞かせると、シジュウカラはヘビと見間違え、反応するのです。でも別の音声を聞かせても、動く枝には反応しないのです。この実験から「ジャージャー」という鳴き声が、ヘビの視覚的イメージを呼び起こしているらしいことが判ったのです。更にはシジュウカラが文法を持っていることも、巧妙な実験で示します。「ピーツピ」は「警戒しろ!」の意、「ジジジジ」は「集まれ」の意なのですが、「ピーツピ・ジジジジ」と鳴くことがあり、これは「警戒して・集まれ」という二語文と解釈します。録音したこの鳴き声を聞かせると、警戒しながらスピーカーに近づいてくるのですが、順序を逆にした「ジジジジ・ピーツピ」では反応しないのです。興味深いことに、2台のスピーカーに分けて「ピーツピ・―――」「―――・ジジジジ」と聞かせても反応しないのです。二語が同一音源から発せられてこそ意味を持つのです。言語学の専門用語で「併合の能力」と言い、人間の言語に特有と考えられていたそうです。
鳴き声を使ってのシジュウカラの豊かなコミュニケーション能力に驚かされるのですが、これを生後の学習で獲得しているとは、更なる驚きでした。人間以外の霊長類では鳴き声の学習獲得は知られてないのですから。またこの豊かなコミュニケーション能力が野生でこそ培われており、飼育下におくと失われてしまうというのも興味深いです。外敵もいないし、エサも与えられる環境下では、鳴き声に対する反応も鈍ってしまい、おしゃべりもしなくなるのです。
後半に入り、意志疎通・コミュニケーション能力の生物進化の枠組みの中で、ヒトの言葉の発生・出現を考察し、更には言葉依存によって失われるコミュニケーション能力にも及び、興味深い議論が展開されます。因みに、私は研究者として、お二人の生物学的実験・体験・観察に関心が向いてしまいましたが、終盤は「現代社会の問題」や「目指すべき未来像」にまで議論がすすみ、読ませるものがありました。