塩井純一
「ミシンと金魚」永井みみ、集英社、2022年
友人に薦められた本書を、図書館のオンライン・カタログで見つけ、早速借り出して、読みました。
独り暮らしで、介護サービスのお世話になっている90歳前後かと思われるよぼよぼ婆さんの、一人語り。例えば、病院の待合室で名前を呼ばれ、介護士のみっちゃんの助けで診察室に「ようやっとたどり着いて、まあるい椅子に腰かける。病人は不安定なまあるい椅子で、女医は肘掛けのついた安定感のある立派な椅子に座ってて、みっちゃんと看護婦さんは、立ちんぼうで、かあいそうだ。」といったようなゆるやかで、しかしなかなかに鋭い皮肉語りが続くのです。話好きで、しかしボケが入っている為に、話が途中からそれてきて主人公も何を話しているのか訳が分からなくもなるのですが、読者にとっては、そのわき道によって様々な背景・事情が判るような、巧みなストーリーの組み立てになっています。ケアマネージャーとして働いている著者だからこそ書ける、認知症が始まりかけている老人の被介護者視線が特異です。このような心の動きは、もはや本人自身はボケて書けないし、かと言って、感情的軋轢が絡む家族介護者による記録・観察とも一線を画します。物語り後半に入って、主人公の恵まれない生い立ちと、その後の辛く、悲しい人生が、一人語りの中で明らかにされます。子供を産む性として、立ち向かわなければならなかった運命に圧倒される想いがあると同時に、オトコの私にとっては、オトコの身勝手さ、無責任さが痛いです。自分を看る何人もの介護婦を皆「みっちゃん」と呼び理由や、タイトルの「ミシンと金魚」の意味が判明すると同時に、胸の潰れる想いがあります。人間の奥深い心の動き、心の闇や切なさ、希望・救いを表現・表出する「文学」の力を思い知らされる一方、「脳科学」による「心」の解明はまだまだの感があります。いやこんなにも切なく、でもしたたかな「心」の機微を科学的に、脳の機能としとして解明することに意味があるのかさえ、「脳科学者」の私としては考えさせられてしまいます。そんな事を解明してどうするの?です。