塩井純一
「言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか」
今井むつみ、秋田喜美著:中公新書2023年刊
認知科学者と言語学者が力を合わせ、言語の誕生と進化の謎を紐解き、ヒトの根源に迫ると紹介されています。昨今、話題になっているチャットGPTの成功で、生成AIや大規模言語モデルで人間のことば(自然言語)の本質も理解できるのではないかという最近の流れの中で、「言語は、抽象的な記号システムである」とする「言語論・言語観」を取り入れて考察しています。
日本語に豊富にみられるオノマトペ(ワンワン等の擬音語やツルリ等の擬態語)の彼らの研究は、観察された実例や、巧妙な心理学的実験を紹介しつつ、受け入れやすい議論が展開されており、更にこのオノマトペを足掛かりに、「子供の言語習得」、「言語の進化」と論を進めていく展開は、謎解きの探偵物や、冒険譚的な刺激がありました。
数年前に読書会で取り上げたチョムスキーの生成文法論がかなり抽象的で、実際の多様な諸言語との具体的つながりの理解が困難だったのに対し、「言語を、抽象的な記号システムである」としてコンピューターの圧倒的な計算能力で自然言語にどこまで近似できるのかは、分かり易く、納得できるアプローチだと思いました。人工知能における「記号接地問題」との比較で、生身の人間の言語ではオノマトペが「記号接地」の役を果たしているではないかの可能性・仮説は説得力があります。ニカラグア手話との関連も興味深いです。
しかしながら脳科学者として脳の人類史的進化も考える私としては、「言語は、抽象的な記号システム」とするコンピューター科学的な「言語論・言語観」は受け入れ難いものがあります。現人類のホモサピエンスが、他の人類と一線を画し、生き残っただけでなく、地球上の全生物種を支配する頂点に立ったのは、コミュニケーション能力によるものだと理解しています。およそ10万年前の言語の獲得を「第一次コミュニケーション革命」、数千年前の文字の発明による言語の文書化・記録化を「第二次コミュニケーション革命」、つい20~30年前に始まるインターネットによる地球規模の言語を介しての繋がりを「第三次コミュニケーション革命」と名付けました。ここで「第一次コミュニケーション革命」は人間以外の動物も発する非言語音(鳴き声・叫び声)からの生物的進化であり、初期段階では手振り・足振り、顔表情も伴う総合の情報伝達系(聴覚だけでなく、視覚、時には触覚、更には失われてしまったフェロモンなどを介する嗅覚も関与していたかも)であり、発声に限っても音の高低や強弱、緩急までもが重要な情報要素だったに違いありません。この初期に「オノマトペ」が入ってきたことは、容易に想像できますが、これすらも「記号」として機能し始めるのは、かなり後なのではないかと思われます。話しことばである原始言語の「記号」化と文字の発明(書きことば化)が同期していた可能性もあります。第一次コミュニケーション革命がアナログ非言語からアナログ言語への変革であったのに対し、第二次コミュニケーション革命はアナログ言語からデジタル言語への変革だったと言えそうですし、言語が対面なしに、文字だけで表現できる単独のコミュニケーション手段として機能できる段階に達したのです。この初期デジタル言語(文字化された言語)の発展型としてコンピューター言語(正真正銘のデジタル言語)がでてきたのですが、このコンピューター言語で作動するコンピューターはデジタル言語である「書きことば」を精緻に、完璧に取り扱えるにしても、アナログ言語である自然言語(話しことば;話し手の文字化できない感情表出も含んでいる)はまだ扱えないのではないかというのが私の見解です。
アイヌ語を始めとする文字を持たない言語、或いは文化はいくつもあり、「話しことば」は「書きことば」なしで成立しています。しかし逆にデジタルの「書きことば」(或いは文字)がアナログの「話しことば」なしに出現した歴史例はありません(少なくとも知られていません)。対してコンピューター言語はデジタル記号から始まっており、このデジタル言語がアナログ言語に遡れるのかは疑問です。とはいえ文字を持たない数千の諸言語(話しことば)の横断的研究から、アナログ非言語からアナログ言語への進化、即ち「ことばの起源」が明らかにされるのではないかと期待したいです。